私の好きなバッハやモーツァルトのみならず、これまた好きなバルザックやプルーストにまで話が及ぶ音楽対談集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2611)】
サツキ(写真1)、タイサンボク(写真2、3)が咲いています。我が家の庭では、ガクアジサイ(写真4、5)の青色が濃くなり、ナツツバキ(写真6)が咲き始めました。中華料理店で、女房が注文した昼食を運んできたのは、可愛いロボット(写真7)でした。
閑話休題、『演奏する喜び、考える喜び』(チャールズ・ローゼン、キャサリン・テマーソン著、笠羽映子訳、みすず書房)は、音楽に疎い私は知らなかったが、世界的なビアニストにして音楽理論家であるチャールズ・ローゼンと、かなり年下の友人キャサリン・テマーソンとの対談集です。
訳者あとがきに、こうあります。「内容的には1993年当時ということを頭の片隅に置く必要はあり、その後音楽界のみならず、社会は変貌しているわけだが、本書で扱われている話題は、今日読んでも、説得力を少しも失っていない。それは、類稀な知性と鋭敏な感性、飽くなき好奇心の持ち主だったピアノ奏者ローゼンが全生涯を傾けた演奏と研究の両面にわたる弛まぬ活動によるものだ」。
「(古典派の様式を大きく転換させた作曲家は)ハイドンですね。まさに彼は、モーツァルトが用いることになる諸形式を、ヨーハン・クリスティアン・バッハとともに確立するのですから。モーツァルトがもたらした変更は違った性格を持っています。20歳以降、ピアノ協奏曲変ホ長調(K271)とともに、モーツァルトは古典派協奏曲を変えていきます。彼は新しい協奏曲概念を創り出します。オーケストラ(トゥッティ)と独奏の間の対照は他の作曲家たちよりもモーツァルトにおいて、はるかに一層顕著です。・・・モーツァルトは聴衆の予想を断ち切り、オーケストラと独奏者との間の対比を瞬間的に消滅させることによって、聴衆をびっくりさせるのですが、それは結果的には対照をより華々しく強めるばかりです。・・・ベートーヴェンは、ピアノ協奏曲第3番、第4番、第5番でモーツァルトを模倣しました。・・・ベートーヴェンも、彼の最も重要な協奏曲において、独奏者とオーケストラとの間の対照を、常套的なやり方の裏をかきつつ強めています」。
20世紀の文学もまた、慣習を断ち切りますね、とのテマーソンの問いかけに、「たとえば、プルーストは小説の慣習を断ち切ります。小説の語り手はマルセルという名だろうと承知させておきながら、彼は、自分の小説の中で、何が小説に従属するもので、何が自伝に属するものなのかを疑ってみるよう私たちを促します」。
「『平均律クラヴィーア曲集』のような、彼(バッハ)の作品の幾つかは、一般聴衆の前で演奏されるために構想されてはいませんでした。ところが私たちは聴衆の前でそれらを演奏し、聴衆にとって興味深く、理解可能なものにしなければなりません。『平均律クラヴィーア曲集』では、主題は隠れていることが多いのですが、もし、必ずやバッハがそうしたように、それを聞かせようとせずに演奏すれば、聴衆は途方に暮れてしまうでしょう。クラヴサンやオルガンといった当時の楽器で、隠れた声部を目立たせるのは困難です。それに反して、現代のピアノで、他の声部すべてを犠牲にして、主題の各々の入りを優先させると、フーガを歪めてしまうことになります。フーガの面白味は、すでに耳にした主題にではなく、主題と他の諸声部との結びつきにあるからです。ですから、丁度中間を取って、主題を相当はっきりと、でもはっきりさせすぎずに聞かせ、今日の聴衆に作品の意味を、学者ぶることなく伝える必要がありますね。同じ問題は文学作品にも提起されます。従妹ベットのモデルが分かっても、バルザックの小説の一層興味深い解釈は提供できません」。
私の好きなバッハやモーツァルトのみならず、これまた好きなバルザックやプルーストにまで話が及ぶので、本書を手にしてよかったと満足しています。