榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

君は文化貴族か、それとも文化庶民か・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2819)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年1月4日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2819)

ウンシュウミカン(写真1)が実を付けています。

閑話休題、難解と言われているピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン――社会的判断力批判(普及版)』(ピエール・ブルデュー著、石井洋二郎訳、藤原書店、Ⅰ・Ⅱ)そのものは敬遠して、訳者の石井洋二郎の手になる解説書『差異と欲望――ブルデュー<ディスタンクシオン>を読む』(石井洋二郎著、藤原書店)に挑戦することにしました。

『ディスタンクシオン』の内容を、石井はこのように要約しています。「すべての行為者は、主として親から相続した経済資本と、家庭のしつけや学校教育を通して獲得された文化資本(とりわけ学歴資本)によって、社会空間の中に一定の位置を占めている。そしてこの社会的位置は、構造化された構造としての階級的ハビトゥスに媒介されて、種々の慣習行動を規定し、その行為者のライフスタイルを構造化している。支配的位置を占めるごく少数の人々は、生まれながらの卓越性(=ディスタンクシオン)によって一般庶民から区別され、文化貴族としての特権を享受することができるが、この特権をもちえない被支配的位置の占有者たちは、文化庶民に特有の上昇志向に駆りたてられて、個々の『場』における正統性の所有化をめざす方向へむかわずにはいられない。その結果、大半の人々は、今度は構造化する構造としてのハビトゥスの生産力に訴えて、実践感覚に導かれながら種々の戦略を組織し、日常生活の中で趣味や慣習行動の限りない差別化・自己卓越化をはかることになる。階級闘争はかくして象徴レベルへと転位され、知覚・評価・行動図式をめぐる分類闘争として継続されてゆく――」。「ハビトゥス」とは、「その人のライフスタイルの素となる慣習行動」と、私は理解しています。

ブルデューはアンケートなどで収集した厖大な資料を駆使して、親の財政的・文化的基盤に支えられ高学歴を獲得し、洗練された文化的生活を送る「文化貴族」と、そうした恩恵に与れない「文化庶民」が厳然として存在すること、そして、「文化庶民」内では、他人より少しでも優位に立とうとする果てしのない競争が展開されていると分析しているのです。

例えば、好みのクラシック音楽を尋ねるアンケートからは、こういう結果が得られています。「支配階級全体で言えば、『四季』、『ハンガリー狂詩曲』、『小夜曲』がベストスリーである。・・・中間階級全体では、『美しく青きドナウ』、『ハンガリー狂詩曲』、『アルルの女』がベストスリーとなる。庶民階級については、全体として『美しく青きドナウ』が66%で1位、次いで『アルルの女』の42%、『ハンガリー狂詩曲』の33%、『ラ・トラヴィアータ』の28%と続く。いずれもクラシック音楽の中では最も大衆化・通俗化の顕著な曲であり、わざわざ聴こうと思わなくてもテレビやラジオでしょっちゅう流されているし、学校の授業でも聴く機会のありそうな作品ばかりだ。・・・ともあれどの曲もメロディーは親しみやすく、聴けば誰でも思い出すほど広く浸透した曲であるから、この数字は当然の結果と言うべきだろう。ここまでの結果を念頭に置いて、今度は作品別に考えてみよう。まず『平均律クラヴィーア曲集』を例にとると、これは支配階級でも特に教授・芸術製作者層において数字が高い曲であるが、中間階級で見ると、新興プチブル層が12%、一般技術員・小学校教員が10%で、他はすべて一桁(しかも5%以下)である。庶民階級にいたっては、わずか1%にすぎない。すなわちこの曲は、全体としては支配階級に特徴的な作品であり、もっと細かく言えば、社会空間の中でも文化資本の豊かな側にかたよって見られる指標である」。

「この区別は音楽作品に限らず、当然ながら他の趣味にも適用できるものであって、たとえば画家で言うと、ブリューゲルやゴヤは正統的趣味、ユトリロやビュッフェは中間的趣味ということになる」。

「四季」、「平均律クラヴィーア曲集」やブリューゲルの絵画が好きだが、八代亜紀の「終着駅」や水森かおりの「鳥取砂丘」も好きな私は、どの層に分類されるのでしょう?(笑)

ブルデューと親交のある石井は、こう続けています。「『ディスタンクシオン』の著者はけっして宿命論者でもなければ、決定論者でもない。彼はただ、フランス社会の現状を科学的に分析し、できるだけ正確に把握しようとしているだけなのだ。・・・無数の差異が社会を構造化しているという事実を確認することと、そうして構造化されている社会の現状をそのまま受容することが、まったく別のことがらであることは言うまでもない」。

石井は、上記を踏まえた上で、こう結論づけています。「社会がその健全なダイナミズムを維持することができるとすれば、それはただ、私たちがみずからの欲望を励起しながら、ざわめく差異の群れを次々に差別化のプロセスへと送りだし、社会というテクストを絶えず新たに織りなすことによってのみである。いかなる絶対化からも自由な場所で、あらゆる停滞と硬直に抗しつつ、みずからを熾烈な差別化=卓越化の運動にさらすこと。差異のフェティシズムを周到に回避しながら、しかし執拗なまでに差異を生産しつづけること。『ディスタンクシオン』とは結局のところ、社会に生命を与える最も根源的な集合的欲望の別名にほかならない」。