わたしたちは「未来」に希望を持たず、「過去」をくよくよ反省せず、「現在」をしっかり生きればよい・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2643)】
カンナ(写真1~3)、グラジオラス(写真4、5)、ヒマワリ(写真6)が咲いています。ブドウ(写真7)、ヨーロッパキイチゴ(ヨーロピアン・ラズベリー。写真8、9)が実を付けています。
閑話休題、『一遍を生きる』(ひろさちや著、佼成出版社)は、わたしたちが一遍から学ぶべきは、「われわれは世間を気にすることはない! もっと自由に生きてよいのだ!」ということだと喝破しています。
「一遍の思想の底に流れているのは、まさしくこの『反体制』というものであったと思います。われわれは彼を、『反体制の仏教者』と呼んでいいと思います」。
「一遍の遊行には、大勢の女性が参加しています。『一遍聖絵』や『遊行上人縁起絵』を見ると、一遍と行動をともにする時衆のうち、僧の時衆と尼僧の比率はほぼ同数です。この『女性』も、基本的には体制によって見捨てられた人たちです。・・・彼は、女性を見捨てていません。・・・それと同時に、一遍には女性が必要だったのです。・・・かりに男僧ばかりが称える念仏を考えてみてください。あまり魅力はありません。それよりも尼僧がまじった混声の念仏のほうが魅力があります。だから時衆には女性が必要だったのです」。
「(一遍の念仏に対する考え方を)要約すれば、結局、『すべてを捨てよ!』になってしまいます。・・・すべてを捨ててしまうと、あとには念仏だけが残るわけです。すなわち『南無阿弥陀仏』の名号のみがそこにあるのです。だから、浄土の教えでは『厭離穢土・欣求浄土』ということが言われていますが、一遍においては、『浄土を求めてもいけない、穢土を厭うてもならない』『地獄を怖れる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て』となるのです。さらに名号のみになれば、当然のこととして『仏もなくなり我れもなくなる』のです。南無される阿弥陀仏も消え失せ、南無と称える自分もなくなってしまう。それが名号のみになった境地です。一遍はこのことを。<されば念々の称名は念仏が念仏を申なり>(それ故、一念一念の称名は、念仏が念仏を申しているのだ)と言っています。だって、称える自分がなくなっているのだから、『南無阿弥陀仏』が『南無阿弥陀仏』を称えるよりほかありません、同時に、『南無阿弥陀仏』を聞いてくれる仏がいなくなっているのですから、<然ば名号が名号をきく也>となるわけです。『南無阿弥陀仏』が『南無阿弥陀仏』を聞いているのです。これが一遍の念仏理論です。・・・つまり、『南無阿弥陀仏』を称えるわたしもなく、南無される阿弥陀仏もなくなり、ただ『南無阿弥陀仏』だけになってしまった。それが一遍の考えた『南無阿弥陀仏』です。一遍は、そのようなぎりぎりのところまで念仏というものを追い詰めた念仏者でした」。
「わたしたちは、希望を持つことがいいことのように教わってきましたが、希望というものは所詮、欲望にほかなりません。あまり慾を膨らませてはいけません。未来は、なるようにしかならないのです。未来のことは仏にまかせておけばよい。あくせく・いらいら・がつがつとせずに、毎日をのんびり・ゆったり・ほどほどに暮らせばいいのです。それで、かりに病気が悪くなれば、またその悪くなった状態で、のんびり・ゆったり・ほどほどに生きればよいのです。そして、あまり反省しないでおきましょう。だって、いくら反省しても、過ぎ去った出来事を変えることはできないのです。あなたは『いま』を大事に生きるよりほかないのです。これで結論が出ましたね。わたしたちは『未来』に希望を持たず、『過去』をくよくよ反省せず、『現在』をしっかり生きればよい。一遍は、そういう生き方をわれわれに教えてくれたと思います」。
本書のおかげで、一遍の教えが身近に感じられるようになりました。