榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

一見、人情話に見えて、奥行きの深さを備えた作品・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2704)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年9月11日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2704)

カイツブリのカップルが3羽の雛を育てています(写真1~4)。クロアゲハの雄(写真5~8)をカメラに収めました。イチモンジセセリの求愛活動を15分ほど観察したが、交尾には至りませんでした(写真9~11の右が雄、左が雌)。オオチャバネセセリ(写真12、13)、ダイミョウセセリ(写真14)に出会いました。

閑話休題、『隠居すごろく』(西條奈加著、角川文庫)を、一気に読み終えてしまいました。

江戸・巣鴨で6代続く糸問屋の店主として、33年間、家業に励んできた仕事人間の嶋屋徳兵衛が、還暦を機に、待ち望んだ隠居生活に入ったところから物語が幕を開けます。「数寄を拠り所に、気ままに趣味に生きる暮らしを一度くらい味わってみたい――。嶋屋という重いくびきを解かれ、これまでの褒美として安穏な余生を送るのが、徳兵衛のたったひとつの夢だった」。

ところが、心は優しいが泣き虫の8歳の孫、千代太が、隠居家をしょっちゅう訪れては、捨てられていた犬や猫を拾ってはくるの、ひもじがっている貧しい兄妹を連れてくるのと、次から次へと厄介事を持ち込むため、思い描いていた隠居生活とは違うぞと、徳兵衛は途方に暮れます。

いろいろな人物が入り交じり、紆余曲折を経て、隠居家内での、貧しい子供たちの手習いや、職を失った者たちの組紐作り、紐数珠作りが、徐々に形を成していきます。子供らによる参詣案内も含め、商いとして自立させたいという徳兵衛の願いが現実味を帯びてきます。「千代太の顔が浮かぶと、自ずと微笑が立ち上る。『何でもかんでも首を突っ込んでは、面倒をもち込んでくる。傍で見ていると甚だ危なっかしく、鬱陶しい性分でもありますが、それで救われる者もいるのだと気づかされましてな』。千代太の小さな手では、できることなどほんのわずかだ。それでも事実、人の縁を繋ぎ、人の輪を広げてきたのは、千代太の強い思いがあってこそだ。諦めが悪く、大人が仕方ないと見過ごすことに、しつこくこだわり続ける。もしも千代太が簡単に放り出してしまえば、徳兵衛もここまでしようとはとても思わなかったろう。孫のしつこさにつき合うているうちに、自ずと思案をくり返すことになる」。

本作品は、一見、人情話に見えて、奥行きの深さを備えています。

その第1は、千代太の成長物語に止まることなく、徳兵衛の成熟物語にもなり得ていて、かつ、老後の理想像が示されていること。

その第2は、利他の精神が人々を成長させ、連帯意識を強めることが描かれていること。

その第3は、商いの本質が語られていること。

「商いを、ただの金儲けだと思えば、金に束縛され翻弄される。しかし富久屋の亀蔵が言ったとおり、そこに自分なりの甲斐を見つければ、まったく別の視界が開けてくる。甲斐とは煎じ詰めれば、他人の役に立つことかもしれない。人に喜ばれ、人に認められる。昇進も儲けも褒美も、すべてはそこに繋がる。主人であったころは、ただがむしゃらに働くしかなく、こんな些末を考える暇などなかった。些末であっても、人生においては大事なことだ」。

「『おじいさま、坊にもようやくわかりました』。『何がだ?』。『商いって、面白いね、おじいさま!』。ふいを突かれて、どきりとした。千代太は屈託のない笑みを、祖父に向ける。『皆で思案して工夫して、一生懸命働いて、お金になれば誰もが嬉しい。千代太屋だけじゃなく、お客さんも、皆が喜んでくれるから、坊も嬉しい』。商いに興味のなかった孫が、ここまで成長してくれたかと、うっかり涙腺が弛みそうになる。来年は、良い正月が迎えられそうだ。徳兵衛は、満足のため息をついて、孫を見送った」。