隠れ家で暮らすようになる前のアンネ・フランクの生活ぶりが明らかに・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2717)】
ヒガンバナ(写真1~3)、シロバナマンジュシャゲ(写真3)、イヌサフラン(写真4、5)、ムラサキツユクサ(写真6)が咲いています。
閑話休題、『アンネ・フランクはひとりじゃなかった――アムステルダムの小さな広場 1933~1945』(リアン・フェルフーフェン著、水島治郎・佐藤弘幸訳、みすず書房)では、アンネ・フランクのよく知られている隠れ家時代でなく、それまでの生活ぶりが、著者の史料調査やインタヴューによって生き生きと再現されています。
「1933年当時、ドイツにいるユダヤ人にとって、オランダへ逃れることはまだ比較的簡単だった。フランク家のように十分な財力と有効な旅券を持っていれば、移住は認められた」。
「アンネはアムステルダムに着いてから、幼稚園に行くのをとても待ちきれなかった。姉のマルゴーもそうだった」。
「アンネとハンネリは幼稚園がおわると、よく(メルウェーデ)広場に姿を現した。マルゴーとバーバラもそうだった。少女たちは石けりをしたり、ビー玉をしたり、かくれんぼをしたりして、新しい友達をつくった」。
「オットーの仕事は1935年には少し上向いていた。最初に雇った女性は26歳のミープ・サントルシッツという人で、うまく折り合っていくことができた」。
「学校では(小学2年生の)アンネは生徒たちのおしゃべりの真ん中にいようとした。彼女の手足は簡単に関節から外れたので、注目されたいときには、自分で腕を関節からカチッと外してみせた。そうすればみなが笑わずにはいられなくなったからだ」。
「(1938年)11月10日、メルウェーデ広場に大きな衝撃が広がった。この日ドイツからあるニュースが飛びこんできたのだ。その前夜、ユダヤ人に対して野蛮な暴力が振るわれ、恐ろしい光景をもたらした。ナチは1400のシナゴーグに火を放ち、棍棒や鉄棒を使って何千というユダヤ人の商店や住宅の窓ガラスを粉々に打ち砕いてまわった。このポグラムはのちに『水晶の夜』と呼ばれるようになるが、この日100人以上のユダヤ人が殺害され、逮捕されたユダヤ人男性は3万人以上にのぼった」。
「その日(1939年6月12日)は平日だったが、オットーは下の娘(アンネ)の(10歳の)お誕生会ということで、特別に休みをとった。広場に日が高く昇ると、女の子たちは全員がきれいなワンピースを着て、一列に並んだ。オットーがそれをカメラに収め、写真として残した。・・・彼にとって将来もっとも重要なことは、アンネが優しい心と陽気な笑いを持ちつづけることだった」。
「1940年の夏にはデルタ通りのペーテル・シフに夢中になっていた。この通りは広場から『摩天楼』に向かう小路だった。ペーテルはアンネより3つ年上で、やはりドイツ系ユダヤ人だった。ペーテルももしかしてアンネが大好きだったのかもしれず、その夏がおわるまでずっと離れることはなかった。ふたりは手をつないで南アムステル通りを歩いたりしていた。ペーテルは白い綿織のスーツを着て、アンネは短い夏のワンピースを着ていた」。
「アンネは校長のクーペルス先生担任の第6学年のクラスにいて、学校生活が気に入っていた。担任の先生は演劇に大きな関心をもっていて、生徒たちに1時間で小さな劇作品を書かせ、次の1時間にそれを演じさせた。アンネはこうなると生き生きとしてくる。作品を書きながらたくさんのアイディアが浮かび、演じる段になっても、ためらうことはなにもない。アンネは人のまねをするのが大好きだったことから、大役が割り振られた。クラスメートより少し背が低かったけれども、自分が女王様や王女様を演じるときには、突如としてクラスメートよりも大きくなるのだ」。
「ユダヤ人の登録が完了すると、占領当局はすみやかにユダヤ人を公共の場から排除しようと乗り出した。『プールで泳げないので、日焼けするチャンスはあまりなさそう。本当に残念だけど、仕方ないわ』。アンネは夏休みがはじまる直前、スイスの親族に向けてそう書いている。ハンネリと彼女が近所の公園に入ろうとしたら、『犬とユダヤ人はお断り』という看板があり、戸惑うばかりだった」。
「1942年5月3日より、6歳以上のユダヤ人は全員、服の左側に『ユダヤの星』をつけることが義務づけられた」。
「(1942年6月12日の13歳の誕生日の)いちばん気に入ったお祝い品の一つが、赤い格子縞の入った日記帳だった。これはサプライズのプレゼントではなかった。すでにアンネ自身が、ブランケフォールト書店でこれをみつけていたからだ。アンネは誕生日当日、この日記帳に最初の文章を記している。『あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね』」。
「ユダヤ人のあいだでは、新たな懸念が広がっていた。『われわれはまもなく移送される、ユダヤ人は全員連行されるだろう、今日、ユダヤ人協議会で話が出たそうだ』。6月末、そんな話が野火のように人々に伝わった」。
「その日の午後、アンネ・フランクはバルコニーでのんびりと本を読んでいた。ベルが鳴ったことや、警察官がドアの前に立っていたことにも気づかなかった。突然マルゴーがバルコニーに出るドアを開け、慌てた様子で、ドイツでの労働について呼び出し状が来た、とささやいた。・・・あとで呼び出し状はマルゴーに来たものであり、翌朝出頭しなければならないことを聞いたアンネは、しくしく泣きだした。『マルゴーは16歳です、そんな若い娘を一人だけ連行しようというのでしょうか。でもほっとしたことに、マルゴーを行かせたりはしません、とママがはっきり言いました』、アンネはあとで日記帳にそう書いている」。
「オットーが帰宅し、ただちに決まったことは、翌朝早くに潜伏に入ることだった。・・・マルゴーの出頭時間になる前に、家族で家を離れることが必要だった。それに先立つ数カ月間、彼は計画を練り、プリンセン運河263番地の自分の事務所の奥部屋に潜伏する準備をしていた。そこには彼の家族だけでなく、ヘルマン・フォン・ペルスの家族のスペースもあった。大きな危険をともなう計画だったが、4名の事務所の職員も、フランク一家を助けることに迷わず賛成してくれた」。
アンネをより深く知ろうとするとき、見逃すことのできない一冊です。