榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

源頼朝はどんな風貌をしていたのだろうか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2839)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年1月24日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2839)

マガモの雄と雌(写真1、2)、雄(写真3)、カイツブリ(写真4)、ツグミ(写真5、6)、スズメ(写真7~9)をカメラに収めました。

閑話休題、国宝神護寺三像の源頼朝とされてきた像が実は足利直義像だったことが明らかになった今、では頼朝はどんな風貌をしていたのか、興味が募ります。この好奇心を満足させてくれたのが、『源頼朝の真像』(黒田日出男著、角川選書)です。

黒田日出男が長年の調査・研究の結果、漸く辿り着いた結論は、甲斐善光寺蔵の源頼朝坐像こそが頼朝の晩年の面貌を正しく伝えているというものです。「鎌倉時代に造像された、現存唯一の源頼朝像は甲斐善光寺の源頼朝像であり、その造像を命じたのは(頼朝の妻)北条政子その人であったのだ」。

本書では、著者が辿った解明の道筋に沿って記述されているが、ここでは、歴史の流れに従って整理してみましょう。

甲斐善光寺蔵の頼朝の彫像が真の頼朝像だと判断する決め手となったのは、彫像の躰内部に納められた胎内銘でした。この胎内銘は掠れが激しく判読が難しかったのだが、著者は苦労を重ね、遂に解読に成功します。

「(信濃)善光寺が大炎上した際、首だけが引っこ抜かれ、辛うじて『御堂』から取り出された、というのが、私の(胎内銘の)読みなのである。大火災に際して、慌てて肖像を持ち出そうとするが、どうしようもなくなった。そこで、頼朝の首を引き抜いて取り出した、と読んでおきたい」。

「まだまだ読めないところや問題の残る解読箇所が残るにせよ、大意はつかめるようになったと思う。すなわち、次のような内容である。<右大将殿(源頼朝)が正治元年正月十三日にお亡くなりになった。尼二品殿(北条政子)の御沙汰によって、この御影(肖像)がつくられ、当善光寺の遊なにがしによって御堂へ遷された。両度(文永・正和)の火災によって(御堂が)焼失したけれども、御影の御躰の首の部分はなんとか取り出された。そうしている間に、観阿弥陀仏の沙汰によって、このように御繕修がなされたのである。 文保三年の五月六日>。このように解読して、私は改めて衝撃を受けた。この甲斐善光寺の源頼朝坐像は、やはり北条政子の命によって造像されたのだ、と。しかも、それは文永・正和の2度の火災に遭ったにもかかわらず、頭部だけは救出され、修理がなされた。そして、文保3(1319)年5月6日に胎内銘が書かれたのであった。もしも、この解読でよいとすれば、この源頼朝の頭部は、どんなに遅くとも政子の死没年である嘉禄元(1225)年以前に造像されたものとなる。おそらく頼朝の死後さほど経過していない時期の造像であったと考えるべきだろう(おそらく七回忌以前といったような、没後間もなくの)」。

従って躰部(胴体)は修理時に制作されたものだが、頭部(首)は頼朝没後間もない13世紀前半に制作されたものということになります。

この彫像が甲斐善光寺にあるのはなぜか。頼朝ともども善光寺如来を篤く信仰した政子によって信濃善光寺に納められたのだが、後代、武田信玄が信濃善光寺から、自らが建立した甲斐善光寺に遷したことが明らかにされています。

甲斐善光寺の頼朝像の面構えからは、頼朝というのは意志が強く、強かな人物であったことが窺われます。