お市の方は、毅然とした考え方をする女性だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2946)】
一日中、雨――。同じ町内会に、これほど見事な作品を作る人たちがいることに、びっくり。キンギョの飼育者によれば、このリュウキン(琉金)たちは購入後1年でここまで大きくなったとのこと。
閑話休題、『お市の方の生涯――「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(黒田基樹著、朝日新書)は、織田信長の妹・お市の方こと、織田市の評伝です。
市の実像を窺わせる信頼できる史料は、2つしかありません。
その1つは、「溪心院文」です。兄・織田信長との戦いに敗れ、自害した夫の浅井長政と死別したことについて、「<御いちさま仰せには、あざい殿時分出させられさえ御くやしく候に>と記されているからである。すなわち、浅井家滅亡の際に小谷城から退去したことについて、<御くやしく>思っていたというのである。それはすなわち、退去はお市の方の本意ではなかったことをうかがわせる。お市の方としては、そのまま婚家に殉じる覚悟にあったように思われる。それが退去しているのは、長政の説得があったからであろう」。
「また(市は)『ことの外御うつくしく』と記されている」。
もう1つは、「柴田合戦記」です。「(子連れで再婚したが、羽柴秀吉との戦いに敗れ、自害する夫の)柴田勝家と死をともにすることについて、『たとい女人たりと雖も、こころは男子に劣るべからず』と発言したという」。
「(敗戦を覚悟した酒宴の後)お市の方と勝家も寝室に戻り、最後の語らいをしている。・・・ここで勝家は、お市の方に対し、信長の一族であるため所縁のものが多くいるうえ、秀吉は信長の子孫を決して蔑ろにしないはずだからとして、北庄城からの退去を勧めている。そしてお市の方が承知すれば、その手筈をととのえ、確実に秀吉のもとに送り届けることを述べている。・・・お市の方は勝家の勧めを敢然と拒否した。謡曲『小督』の一節を引用し、何事も前世からの因縁であるとし、勝家と結婚したからには、勝家とともに死ぬのが筋であり、私は女性ではあるが、その考えは男性に劣ることはないので、一緒に自害することを主張している。ここからお市の方に、結婚したからには、婚家が滅亡する際にはそれに殉ずる考えがあったことがわかる。・・・ここにみえるお市の方の姿から、お市の方は自分の意志を強く持っていた人物であった、ということがわかる。そしてそれは、家父長制社会のなかにあっても、自らが男性に負けるものではないと自負する、気概を認識させる。戦国大名家・国衆家を担った女性たちには、このような意志の強さ、気概が必要であったのだろうし、それなくしては戦国大名家・国衆家の存続は果たされなかった、と認識することができるように思う。・・・二人は結婚してからまだ10ヶ月も経っていない間柄であったが、戦国大名家・国衆家の夫婦というものを、しっかりと体現していたことがうかがわれる」。
「お市の方は、永禄10(1567)年に近江小谷領の国衆・浅井長政と結婚する。浅井長政は天文14(1545)年生まれであるから、お市の方が同19年生まれであったとすれば、お市の方より5歳年長にあたったことになる」。これまで一般的には、浅井長政は自立した戦国大名と見做されることが多かったが、近年、越前朝倉家に従属する国衆の立場にあったことが指摘されるようになっているとのことです。
市は長政と結婚後、長女・茶々、次女・初、三女・江(ごう)を産みます。
「お市の方は、最後は勝家に刺し殺されるかたちで、その生涯を終えた。34歳くらいであったとみなされる」。