プルーストは最終篇が書きたくて、『失われた時を求めて』に取り組んだのか・・・【情熱の本箱(182)】
長い期間をかけて『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳、集英社、全13巻)を読み終えた時、私が感じたのは、プルーストは最終篇「見いだされた時」が書きたくて、この長大な小説を書いたのだなということであった。
この私の印象が間違っていないかを確かめたくて、『プルーストと過ごす夏』(アントワーヌ・コンパニョン、ジュリア・クリステヴァ他著、光文社)を手にしたのである。
本書では、『失われた時を求めて』の練達の読み手8人が、それぞれが得意とするテーマ――「時間」「登場人物」「プルーストと社交界」「愛」「想像界」「場所」「プルーストと哲学者たち」「プルーストと芸術」――について、縦横無尽に語っている。
私がとりわけ興味を惹かれたのは、「時間」と「愛」の章である。
驚くべき内情が明らかにされている。「もし彼(プルースト)がもっと長く生きていれば、この本は3千ページではなく4千ページになっていた可能性すらある。『囚われの女』と『消え去ったアルベルチーヌ』と『見いだされた時』は、もっと増えていたかもしれないのだ」。
「『見いだされた時』で、語り手は、病気のために戦争中何年ものあいだ留守にしていたパリに戻る。ゲルマント大公夫人の家に招かれた彼は、かつて知っていた人たちがことごとく年老いているのを目の当たりにする。長い時の流れは、ついにこの『仮装パーティー』で終局を迎えるのだ。文学の中に自分の道を見いだしたばかりの主人公は、悲愴であると同時に歓喜に満ちたこの『仮装パーティー』で、ほかの人たちよりも優位に立ったような感情を抱く。自分が彼らのことを語り、彼らを忘却から救い出し、死者を祀る記念碑を建ててやろうと、彼は思う」。ここでいう「仮装」とは、時の経過により、登場人物たちが肉体的、精神的に、また身分の上でも、大きく変貌してしまったことを表現したものである。
「プルーストは、『目に見えない時間というものの実体』を言葉で書き写したいと思っていた。そしてそれに成功している」。
「主人公の成長と老化こそ、この物語の導きの糸なのだ」。
「1950年代になって、(手書きの)草稿資料が刊行されたとき、人々はプルーストが驚くべき仕事の鬼だったことを知ったのである」。
「時の流れに、われわれは幻惑される。われわれが何をしたところで、そこからは逃れられない。だが、『失われた時を求めて』は、その時を意のままにする。なぜなら、『見いだされた時』で、語り手は、この無意志的記憶を文学の原動力にする方法を発見するからだ。第1篇『スワン家のほうへ』から最終篇『見いだされた時』までのあいだに、いわばその解の過程がある」。
「プルーストは、書き出しを書いたすぐあとに結末部を書いたと言っている。だがこれはやや誇張しすぎである。・・・彼はもう文学の、生と死を贖ってくれる、贖罪の役割に気がついている。この意味で、『失われた時を求めて』は幸福な書物だ。幸せな終わりを迎える本なのである」。
「『失われた時を求めて』は、まずは失望と喪失の小説として現れる。だがそのあとに、もう少し晴れやかな未来の約束が待っている。『見いだされた時』は、純粋状態の時が到来し、時間の順序が乗り越えられて、過去を取り戻すという展望を語っているもののように見えるからだ。語り手は、ついに時から解放される。『時の外に』立つ。だが、その直後、『仮装パーティー』で、彼はまたしても時の中に落ち込む。目の前には、年齢や病気や老化によって変質した、死を控えた仮面がずらりと並んでいるのだから。ひとり語り手だけが、いやむしろ、ひとり文学だけが、やがて時を超えることができるのである。・・・そしてそれは、希望で締めくくられる」。
「時間」の章のアントワーヌ・コンパニョンのこの見解は、いささか楽観的過ぎるように私には思える。最終章のゲルマント邸のマチネー(午後の集い)の場面に至って、語り手が時の流れという抗い難い圧倒的な力を目にして打ちのめされ、時というものの生態を文学という形で描いておかねばと決意を固めたことは確かだが、ここで語り手の胸の奥の襞に分け入ってみよう。いよいよ小説に取りかかるぞという昂揚感と同時に、他の人々と同じように時の風化作用を受けている自分にその時間が残されているのかという不安に駆られていたのではないだろうか。
プルーストの愛については、プルーストが自らの同性愛の経験を物語の中では異性愛に置き換えているため、正直言って、『失われた時を求めて』を読んでいる間中、違和感が始終私に付きまとっていた。同性愛を非難しているわけではなく、感覚的に私には理解できないからである。そこで、異性愛であろうと同性愛であろうとこの感情は同じと思われる「嫉妬」に注目してみた。
「嫉妬はさまざまな形で説明されうる。一般的に言うと、愛のためにわれわれは一人の他人を必要不可欠なものと感じ、その人を失うことにも、その人から愛されなくなることにも耐えられないという気持ちを抱くようになる。これが嫉妬の生まれる根本である。その人が自分のものでなくなるというこの感情に加えて、自己愛が傷つけられるということもある。自分のことを拒否した人が、ほかの人のものになることを受け入れるのを見ることになるからである。ほかの誰かが自分を押しのけ、自分の場所を奪ってしまう。愛する者を失った絶望が、その時、恨みや悔しさから来る怒りによって、ますます激しい苦しみの感情となる」。
「嫉妬とは想像力の生み出す精神の病理だからである。疑いのないところに嫉妬は生まれないように、想像力のないところに疑いは生まれない。ところで、『疑い』の特性とは、こういうことがあり得るかもしれないという可能性に対するわれわれの想像が、われわれが現実について持っているイメージをずたずたに引き裂いてしまうことである。愛する女が視界からいなくなるやいなや、われわれはあらゆることを想像する。彼女は今どこにいるのか。何をしているのか。誰といるのか。どんな様子なのか。嫉妬深い男はこうして相手の男を思い描く」。
「嫉妬の最も秘められた強靭さをわれわれに教えてくれるのは、おそらく語り手が持っているあの強迫観念だろう。語り手は、アルベルチーヌがもう死んでしまった後までも、彼女の人生のどんな詳細も掘り起こし、見つけ出そうとする。・・・アルベルチーヌとは、いったい何者だったのか。私は、いったい誰を愛していたのか。自分の人生をある人に捧げたのに、実はその人は存在していなかったとするなら、私の人生はいったい何だったのだろう。私はただ夢を見ていただけなのか。嫉妬はこうして、愛する人への疑いばかりでなく、ついにはわれわれの現実について疑い、われわれが生きていると思い込んでいた現実についての疑いにまで行き着く」。私自身の過去の嫉妬経験がまざまざと甦ってきて、息苦しくなってしまった。
プルースト・ファンには見逃すことのできない一冊である。