榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

春日局が謀反人の娘でありながら、徳川家光の乳母に抜擢されたのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3030)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年8月4日号】 情熱的読書人間のないしょ話(3030)

ハグロトンボの雄(写真1、2)、コシアキトンボの雄(写真3)、シオカラトンボの雄(写真4)、オオシオカラトンボの雄(写真5)、ヒメアカタテハ(写真6、7)、ツマグロヒョウモンの雄(写真8)、アカボシゴマダラ(写真9)、アブラゼミの雄(写真10)、雌(写真11)をカメラに収めました。セイヨウニンジンボク(写真12)、ムクゲ(写真13)、ユリ(写真14)が咲いています。

閑話休題、春日局(かすがのつぼね。お福)が謀反人・明智光秀の重臣・斎藤利三の娘でありながら、徳川家光(竹千代)の乳母に抜擢されたのはなぜか知りたくて、『春日局――知られざる実像』(小和田哲男著、吉川弘文館)を手にしました。

本書のおかげで、私の疑問が氷解しただけでなく、春日局が家光の第三代将軍就任に果たした役割、家光将軍時代に春日局が大奥の制度を確立した経緯も知ることができました。

「浪人の妻だったお福が、どのようなきっかけで(徳川)秀忠の子竹千代の乳母に上がることができたのだろうか。常識的に考えれば、将来の三代将軍になろうという竹千代の乳母である。(徳川)家康か秀忠かに直接関係があり、しかも身分的にもかなりしっかりしている婦人が選ばれるのが当然であろう。それが『謀反人の娘』であり、浪人の妻であるお福が選ばれる必然性はほとんど皆無といってよかった」。

「お福の履歴に目をとめたのは家康だったのではなかろうか。何よりも、明智光秀の家老斎藤利三の娘だという血筋がいい。豊臣秀頼がまだ大坂城にいるとはいうものの、『光秀の遺臣の娘』は、経歴にさわるわけではない。むしろ家康は、利三の武将としての資質を知っていただけに、かえってよろこんだであろう。また、家康にしてみれば、お福が稲葉正成の妻だったということも、ある種の感慨をもってうけとめたはずである。関ヶ原勝利の功労者は、つきつめていえば(小早川秀秋の家老であった)稲葉正成にあったという思いは家康とてもちつづけていたものと思われる。その正成が浪人の身だということは家康も知っていたろうが、やはりうしろめたいところもあったであろう。仮に乳母の候補が何人かあったとしても、家康が最終的に選ぶとすれば、お福を選んだのではなかろうか。お福がはじめて江戸城に上がり家康に拝謁したとき、家康は『汝は斎藤内蔵助が女也。父武名を以て天下に顕はる。汝女人といへども、恐らくは常人に非ず。能勤で竹千代を保護せよ』といったという。家康も、乳母はただ乳を与えるだけの役目ではないことを承知していた。幼児教育者として、春日局に期待をかけたのである。父親が斎藤利三だということは、かえってプラスになっていることがわかる」。

「お福の竹千代を思う気持が、幕府政治の根本の部分に大きなインパクトを与えたわけで、それだけに、慶長16(1611)年に推定される家康への直訴が歴史的に大きな意味をもっていたということになるわけである。たしかに、大局的にみれば、お福からの働きかけがなかったとしても、家康としては(家光の弟の)国松(徳川忠長)をではなく、竹千代に三代目の将軍職を指名した可能性は高い。しかし、お福が『竹千代を何としても家督に』と思い続けたことが、家康のそうした思惑をスムーズに運ばせる要因となったこともまぎれのない事実だったと思われる」。

「家光は、将軍になった元和9(1623)年、お福を大奥女中の取締りの役につけた。・・・元和4年の最初の『大奥法度』にしても、元和9年の改訂版の『大奥法度』にしても、それをお福が制定したということはどこにも記されてはいない。しかし、そのころすでに大奥のことはお福がたばねていたことは事実であり、『大奥法度』の制定の主役は、やはりお福だったとみるのが自然であろう。『明良洪範』に、『都(すべ)て奥向の定法は、皆二位の局の制作なりとぞ』とあるのが一つの証拠になろう。二位の局というのはお福のことである」。家光の後継男子を得るために奔走するお福が、江戸城内に女だけの世界を作り上げたのです。