太田道灌縁の旧跡が網羅されている、道灌好きには堪らない一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3154)】
東京・杉並の西荻窪~荻窪~阿佐ヶ谷~高円寺を巡る散歩会で、目に付いたものです。サザンカ(写真1、2)、ルリマツリ(写真3)、ダイアモンドリリー(ネリネ・ボウデニイ。写真4)、ポインセチアとシクラメン(写真5)、キク(写真6、7)が咲いています。センリョウ(写真8)が実を付けています。ツタ(写真9)が紅葉しています。カキ(写真10)が干されています。岩下慎吾の油彩情景画「京王永山駅 17時26分発 準特急 新宿行き」(写真16)に、一瞬写真ではないかと、思わず目を瞠ってしまいました。
閑話休題、私もメンバーになっている東京・杉並を巡る散歩会では、主宰者・長谷川雅也さんの説明に太田道灌の名がしばしば登場します。道灌は私の大好きな武将なので、嬉しくなります。
私のような道灌好きにとって、『太田道灌と武蔵・相模――消えゆく伝承や古戦場を訪ねて』(伊藤一美著、戎光祥出版)は堪らない一冊です。武蔵・相模の道灌縁の旧跡が網羅されているからです。
「武蔵から相模領域を押さえていた唯一の扇谷上杉氏勢力であった道灌は、周りから囲まれる状況で新たな戦略を取っていく。まずは、江戸城至近地区の石神井・練馬城(ともに東京都練馬区)に拠る豊島氏、相模では溝呂木(神奈川県厚木市)・小磯(同大磯町)・小沢(同愛川町)の領主たちへの対応と攻撃準備、小机城(横浜市港北区)の矢野氏などへの河越城衆攻撃命令など、次々と手を回していく。五十子陣の再興を期して道灌は動き出す。そして5月、用土原(埼玉県寄居町)・針谷原(同深谷市)で(長尾)景春方を大敗させたのだ。・・・(古河公方足利成氏を頼った景春方と和睦の機運が生まれたが)江戸城近辺では豊島氏が再び動き出す。平塚城(東京都北区)や膝折宿(埼玉県朝霞市)から荏原郡丸子(川崎市中原区)へと道灌との戦況は目まぐるしい。景春方の小机城は結局、公方らの援軍も十分対応できずに道灌勢によって攻撃され、豊島氏は滅亡する。すでに江戸氏・大石氏勢力を追って、武蔵国内はほぼ道灌が制圧した。さらに相模の大森氏をも、一族内部の対立を利用して小田原(神奈川県小田原市)を平定する。・・・残るは、反道灌方であった千葉孝胤や上総武田氏との対応だった。文明18(1486)年、千葉氏攻撃のために隅田川を渡っていく。結局、これが道灌最後の戦いとなった。同年7月26日、主君上杉定正の命により、曽我兵庫助が道灌を風呂屋の小口で討ちとっている」。何ということでしょう、主君のために抜群の働きをした道灌は、その主君に誅殺されてしまうのです。