これまで、私は豊臣秀吉の第1位の妻・寧のことを誤解していた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3342)】
東京・文京の小石川後楽園は、ハナショウブが見頃です。因みに、本日の歩数は13,519でした。
閑話休題、豊臣秀吉の第1位の妻・浅野寧(ねい)の評伝『高台院』(福田千鶴著、日本歴史学会編、吉川弘文館・人物叢書)を読んで、これまで、私は彼女のことを誤解していたと思い知らされました。彼女は、後に「北政所」、「高台院」と呼ばれます。
その第1は、彼女の実名は、「ねね」、「おね」、「ね」などと表記されることが多いが、「ねい(浅野寧)」とするのが学術的に適切であること。
その第2は、寧と浅井茶々とは喧伝されているような険悪な関係ではなく、秀吉没後、両者は豊臣家存続のために連携していたこと。因みに、天正11年時点では、秀吉は48歳、寧は35歳、茶々は15歳(いずれも数え年)であり、年齢差があることが分かります(参考までに、徳川家康は42歳)。寧が豊臣秀頼に深い愛情を抱いていたことを示す手紙が残されています。
その第3は、秀吉没後、寧は家康と誼(よしみ)を通じ、家康の権力確立に協力したとされるが、実際はそうではなく、寧の影響力を恐れた家康・徳川秀忠によって行動を監視されていたこと。
個人的に、とりわけ興味深いのは、織田信長が28歳の寧に与えた朱印状の解釈です。これは、信長が秀吉のことを「はげねずみ」と呼んだ史料として、よく知られています。寧の手土産の見事さを褒め、その容姿も十の物を二十倍、つまり二倍に見上げたと持ち上げ、秀吉が寧に不服をいうのは言語道断と伝え、剥げ鼠の秀吉にはもったいない妻なので、「上様(かみさま。妻の尊称)」としてどっしりと構え、女たちのもめ事(悋気)に立ち入らず、聞くだけにしておきなさい、との教訓を与えています。寧が女癖の悪い秀吉を信長に訴えたことに対して、信長がこの書状を秀吉に見せて反省させるように促した書状だとされてきたが、信長はこの恥ずかしい手紙は他人には見せるなと伝えていると解釈すべきだというのです。福田千鶴は、寧は主君信長から秀吉の妻としての地位を公認された朱印状を与えられたことで、心強い後ろ盾が得られて安堵し、以後は信長の教えを遵守することに努めたと考えています。