アガサ・クリスティーはミステリ以外でも凄腕の小説家だ――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その160)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(247)】
●『春にして君を離れ』(アガサ・クリスティー著、中村妙子訳、ハヤカワ文庫)
『春にして君を離れ』(アガサ・クリスティー著、中村妙子訳、ハヤカワ文庫)は、数々のミステリで知られるアガサ・クリスティーの数少ないミステリでない作品の一つである。
ヒロインのジョーン・スカダモアは、成人した3人の子の母であるが、夫・ロドニーの目には「物事に打ちこみ、万事をてきぱきとかたづける有能さ。首筋の線の若々しさ。皺一つない美しい顔。快活で、自信にみち、愛情に輝いている」と映っている。
ジョーンは、バグダードに住む末娘を見舞うため、周囲の反対を押し切って英国を旅立つ。この6週間の旅行中に、彼女は心を激しく揺さぶられるような経験をする。本書の終盤は、この経験の息詰まるような描写の連続で、本当に息苦しさを覚えるほどだ。そして、最終段階に至って、読者は強烈な逆転パンチを食らうことになる。このストーリー展開の巧みさは、さすが、「ミステリの女王」と呼ばれたクリスティーだけのことはある。
ジョーンの前に登場するのが、ジョーンとは何もかも正反対のレスリー・シャーストンという女性である。「後ろめたげな目ざしの前科者の夫をもったレスリー――酒に溺れている夫との貧しい生活、病気、そして死。・・・レスリーはちっともみじめでなんかなかった。沼地でも、耕地でも、川の中でも、構わず歩いて目的地に到達しようと心を決めている人のように、幻滅にも貧乏にもめげずに、彼女は歩んだ。快活に、もどかしげに・・・」。「彼は改めて彼女(レスリー)の勇気に感嘆したのだった。それは自分のための勇気以上のもの、愛する者のための勇気であった」。
私がこの作品から強い印象を受けたのは、3つの理由による。
第1は、愛とは何か、夫婦とは何か、勇気とは何かが、厳しく追求されていること。
第2は、価値観を共有するとはどういうことかが、具体的に語られていること。
第3は、人間が真に変化するとはどういうことがが、クリスティーの冷めた目で捉えられていること。
「あの日、アシェルダウンでレスリーと10月の太陽を浴びながら一緒に――しかしひどく離れて坐っていたとき。あの苦悩、そして狂おしいまでの憧れ。二人の間には4フィートの距離があった。それ以上近づくことを恐れたからだった。・・・二人の間の空間は、憧れの火花に満ちみちていた」――本書の中で、私の一番好きな箇所である。