幸田露伴の文語体の心地よいリズムに酔い痴れる・・・【山椒読書論(70)】
最近、非常に恥ずかしい思いをした。というのは、中国出身の気鋭の日中文化比較研究者が、その著書の中で、幸田露伴の『運命』(幸田露伴著、『運命/幽情記』所収、講談社文芸文庫)に言及していたからである。
敬愛する露伴の作品は、それなりに読んできたつもりだったのに、明の永楽帝が登場する『運命』という作品が存在することを知らなかったのだ。永楽帝その人については、『永楽帝』(伴野朗著、徳間書店。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)などを通じて知ってはいたのだが。
さらに驚いたのは、この研究者が大胆な仮説を提示していたことである。「明の太祖洪武帝の死後、孫の建文帝が遺詔によって即位したが、太祖の第四子燕王が叛逆の軍を起こし、叔父・甥が南北に分かれて戦うことになった。4年間にわたり骨肉相食む戦いを繰り広げた末、ついに建文帝は敗れ、火中に身を投じて自焚する。燕王は野望を遂げ、明王朝3代目皇帝となり永楽帝を名乗った。『運命』はこのような建文帝と永楽帝の叔父甥の王位争奪を描いた作品である。・・・私は、露伴は中国の明王朝の歴史ではなく、日本史における天皇家の内乱、壬申の乱を書くために、建文永楽を借りたのではないかという思いに至った。壬申の乱と建文永楽の王位争奪があまりにも酷似していることに気づいたのである。永楽帝の時代より800年前の672年、天智天皇の長子大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷に対し、吉野に籠もっていた天智天皇の実弟大海人皇子が叛乱を起こした。1カ月の激戦の後、大友皇子は敗れて自殺する。大海人皇子は天武天皇として即位し、大化の改新を進めた。この年に因み、壬申の乱と称される。・・・『運命』という作品は、中国文化を借用した創造であった」。
これではならじと、早速、『運命』を手にした次第である。
さすがに露伴、その文語体の文章はきりりと引き締まっていて、音読すると心地よいリズムに身を委ねることができた。物語の展開も遅滞なく力強く、明治期の日本文学の最高峰に位置する作品と言っても過言ではないだろう。
「先哲曰(いわ)く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或(あるい)は能(よ)く数を知らん」、「永楽簒奪(さんだつ)して功を成す、而(しか)も聡明剛毅(そうめいごうき)、政(まつりごと)を為(な)す甚だ精、補佐(ほさ)また賢良多し」、「不世出の英雄朱元璋(しゅげんしょう)も、命(めい)といい数(すう)というものの前には、ただ是(これ)一片の落葉秋風に舞うが如きのみ」、「燕王(えんおう)事を挙げてより四年、遂(つい)に其(その)志を得たり。天意か、人望か、数(すう)か、勢(いきおい)か、将又(はたまた)理の応(まさ)に然(しか)るべきものあるか」といった格調の高さである。
「それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡(そとうば)が所謂(いわゆる)善(よ)く奕(えき)する者も日に勝って日に敗(やぶ)るるものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児(きょうじ)を挙ぐ」という一節では、有能・忠実な幹部が燕王による危機が迫っていると忠告したのに耳を貸さず、また、最も信頼できる歴戦の軍司令官が燕王軍との初戦に一敗しただけなのに更迭してしまい、その後に自惚れ屋の軽薄な男を据えたので、燕王が手を打って喜んだと、建文帝のリーダーシップの欠落ぶりを嘆いている。いつの世も、リーダーシップは難しいものだ。
文中に同時代の日本の後醍醐天皇の皇子・懐良王(かねながおう)の名が見えるのも興味深い。