人は誰もが、読む者の胸に響く「物語」の書き手である・・・【山椒読書論(146)】
読売新聞1面の「編集手帳」を長年担当している竹内政明の文章術を知りたくて、『「編集手帳」の文章術』(竹内政明著、文春新書)を手にした。
一番感じたのは、大新聞を代表して1面コラムを毎日書くということは、いろいろと気を使うことが多くて大変だな、ということであった。比較するのは僭越の限りだが、その点、私のように趣味で本を読み、趣味で書評などを書き散らしている立場は、何と自由で気楽なんだろう。
著者の「私の『文章十戒』」は、そういう意味で、新聞社を代表する立場が色濃く滲んでおり、素浪人の私の文章ルールとは大分異なっている。ただ、「第八戒:『変換』を怠るなかれ」には、強い共感を覚えた。「コラム書きも言葉選びには気を使います。『考えすぎ』を『思い過ごし』と言い換えて、効果を比べてみる。『ミス』を『失策』―『落ち度』―『手抜かり』と順番に言い換えて、文脈にふさわしい言葉を選ぶ。『すべての雲が・・・』を『雲という雲が・・・』と言い換えて、調べの違いを確かめる。ほんの一例にすぎませんが、いまでは日課となった作業です」。
「私にとってコラムの執筆とは、何はさておき『削る』仕事です」という言葉にも、思わず頷いてしまった。
著者は、「書き出しの3原則」で、山本夏彦から「向田邦子は突然現れてほとんど名人である」と絶賛された向田邦子の書き出しの巧みさに光を当てている。「仕事が忙しい時ほど旅行に行きたくなる。(『小さな旅』)」、「手の美しい人である。(『余白の魅力 森?久彌』)」、「人の名前や言葉を、間違って覚えてしまうことがある。(『眠る盃』)」、「爪を噛む癖がある。(『噛み癖』)」、「死んだ父は筆まめな人であった。(『字のない葉書』)」、「いい年をして、いまだに宿題の夢を見る。(『父の風船』)」、「味醂干しと書くと泣きたくなる。(『味醂干し』)」、「生れてはじめて縫った着物は、人形の着物である。(『人形の着物』)」、「一度だけだが、『正式』に痴漢に襲われたことがある。(『恩人』)」。
「誰にでもその人なりの『嫌なことば』があるでしょう。文章を書くことに思い入れの深い人ほど、好き嫌いがはっきりしているようです。何を食べてもおいしく感じる人が料理人に向かないように、どんな言葉を使っても神経の傷つかない人は文章を書く仕事に向きません」という指摘には、「そうだ!」と声を漏らしてしまった。
「私はいわゆる名文というものを『声に出して読んでも呼吸が乱れない、すなわち耳で書かれた文章のこと』と解釈しています」。まさに、そのとおりだ。
最後に、「編集手帳」(2003年7月5日付)から抜粋しておこう。「東京・大手町の逓信総合博物館で、福井県丸岡町の主催する手紙文コンクールの秀作展『<日本一短い手紙>物語』を見た。過去十年間の応募のなかから、二百点余りの珠玉の作品を展示している。青竹から涼しげに垂れた短冊に、文面が筆でしたためてある。『<いのち>の終りに三日下さい。母とひなかざり。貴男(あなた)と観覧車に。子供達に茶碗蒸しを』(五十一歳・女性)。読む者の胸に響く『物語』の、人は誰もが書き手であることを短冊の手紙が教えている」。