『歎異抄』の親鸞の思想を分かり易く解説・・・【山椒読書論(306)】
私は無宗教であるが、親鸞という宗教者と、その思想には大いに関心がある。
親鸞の思想に近づくには、弟子の唯円が著した『歎異抄』(唯円著、金子大栄校注、岩波文庫)を繙くのが一番であるが、その理解を大いに助けてくれるのが、『歎異抄講話』(暁烏敏著、講談社学術文庫)である。
親鸞の思想の中核は「他力本願」であるが、このことが、実に分かり易く解説されている。
親鸞は、ひたすら仏にすがり、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えさえすれば極楽浄土に行けると説いたが、著者は、この念仏について、「念仏は滅罪のためにあらず報恩のためなり」と、自分が犯した罪を消すため、罪滅ぼしのために念仏を称えることを、厳しく戒めている。
「私どもが仏の御名を称えるのは祈りの心でもなく、求むる心があってでもなくまた罪を亡ぼすためでもない。如来は願わざるに願い、求めざるに求め、祈らざるに祈り給いて、私どもの往生を成就してくだされた。ゆえに私どもはただこのうれしさのあまり、なつかしさのあまりに、仏の御名を呼びたてまつるのである」。
「しかるに、ある異解者(いげしゃ)がいうように、念仏申すごとに、どれだけずつかの罪を消すように信じておるのは、いまだ他力摂生のありがたさを知らぬのである。自分の称えた力で、罪を消して、浄土にまいろうと励むのだからして、自力の執心にかかわっておるのである。大食をした後にタカヂアスターゼ(消化酵素剤)を飲むような気持で、罪を造ったので念仏を称えてこれを消し滅そうとはげむのは、正当な他力信仰の上の念仏とは申されませぬ」。
「(一生の間、四六時中、罪を消そうと念仏を唱えることはどだい無理なのだから、次から次へと)罪は造って、これを消す念仏を称えぬのだから、その称えぬ間に造りためた罪はどうして滅すとするのか、罪が消え残るとすれば、往生はかなうべからずとするのか。はたしてそうとすれば、私どもはとうてい往生について安心しておることができぬのである。ゆえにかように、称名の力によりて罪を消して往生するのだと信じておるようなのは、他力摂生の如来の御意(みこころ)にかなわぬ思いぶりであると申さなければならぬ」。
もし、親鸞が、遥か後世の暁烏のこの解説を聞いたならば、「まさに、そのとおり」と大きく頷いたことだろう。