榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

モーセは実在したのか、ダビデは実在したのか・・・【山椒読書論(295)】

【amazon 『聖書考古学』 カスタマーレビュー 2013年10月26日】 山椒読書論(295)

私は無宗教であるが、宗教――仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームを問わず――には興味を抱いている。

この意味で、『聖書考古学――遺跡が語る史実』(長谷川修一著、中公新書)は、私の知的好奇心を大いに満足させてくれた。

考古学は聖書について何を明らかにすることができるのか、聖書の記述の史実性を裏づけることができるのかが、説得力を持って述べられている。本書が対象とする聖書は、新約聖書ではなく、旧約聖書である。ただし、旧約聖書に書かれている奇蹟の類――モーセが奴隷状態に置かれていたユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出する出エジプトの途次で、紅海が真っ二つに割れ、露出した底地を無事に渡ることができたといった――が史実であったかどうかは対象外とし、論じていない。

著者が、「本書では、信仰の対象としての聖書からは距離を置き、聖書を『人間が何らかの意図を持って書き、また編纂したもの』として批判的に扱う。このため、聖書の内容の史実性を考える際には、テキストの史料批判を踏まえつつ、考古学的な情報と比較するよう努める。結果は時に聖書の記述とは相容れないこともあるが、同時に聖書の深い理解のために大変意味のある材料をも提示してくれるのである」と、この本の目的を明確に述べている。

因みに、考古学でいう遺物、遺構、遺跡の区別が、分かり易く説明されている。遺物は「持ち運びできるもの」、遺構は「持ち運びできないもの」、遺跡は「遺構の集合体」だというのだ。

旧約聖書に記された「族長時代」を代表するアブラハムは実在したのか――「父祖たちの物語の中で、その内容の史実性がその舞台となった町の発掘によって確認できた例は今のところない。しかし発掘の成果の一部は、父祖たちの物語すべてがまったくの創作というわけではなく、そこに何かしら、古代の記憶が反映されている可能性をも暗示している。ただそれを聖書が記す族長時代中の出来事に限定することは不可能であろう」。

ユダヤ人たちがカナン(=パレスチナ)を征服したとする「土地取得時代」を代表するモーセは実在したのか――「『出エジプト』という出来事の史実性には疑問な点が多い」。

続く「イスラエル王国時代」を代表するダビデと、その息子・ソロモンは実在したのか――「ダン碑文自体は決して直接的な証拠にはなりえないものの、その発見によってダビデが歴史的に実在していた可能性はかなり高まったと言えるだろう」。著者は、「そもそも『歴史的存在が確認される』、とはどういうことだろうか。本当にある人物が実在したかどうかはタイムマシンに乗って過去に戻り、その人物に会ってみなければ確かめられない。本書では、聖書以外の同時代文献にその人物の直接の功績などが言及される場合、同人物が歴史的に実在していたとみなすことにする」と、その方法論に言及している。

古代のパレスチナに生きた弱小な民・ユダヤ人が、ユダヤ教という厳しい宗教を拠り所とすることによって、自分たちのアイデンティティを連綿と保ってきた――旧約聖書が、このことを雄弁に物語っている。