「欲望」という名の電車から「墓場」という電車に乗り換えて、「極楽」に降り立ったヒロイン・・・【情熱の本箱(42)】
映画や芝居でお馴染みの『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ著、小田島雄志訳、新潮文庫)の原作を読んで、テネシー・ウィリアムズの戯曲作りの力量にほとほと感服した。
先ず、登場人物の造形が見事だ。アメリカ南部の大地主階級出身のため零落しても気位の高い、未婚のまま年齢を重ねたブランチと、彼女の妹の夫で、勃興しつつあるニューオーリアンズを体現する工場労働者・スタンリーの対立という構図にぴったりの人物を生み出したのだ。これには、著者自身の貧しかった過去や同性愛の体験が投影されているのだろう。
次に目を引くのが、題名の巧みさだ。これが、我々の知っている『欲望という名の電車』でなく、最初付けられていた『月光の中のブランチの椅子』や、その後、改題された『ポーカーの夜』だったら、これほど評判になっただろうか。
もう一つ忘れてならないのは、音楽の効果的な使い方である。「テンポの速い、熱っぽいポルカの曲、『ワルシャワ舞曲』が聞こえている。これはブランチの心のなかで鳴りひびいている曲なのである。彼女はその曲から、そして襲いかかってくる破滅への危機感からのがれようとして酒を飲んでいる」。「スタンリーが建物の角をまわって現われる。まだ鮮やかな緑の絹のボーリング・シャツを着たままである。彼が角を曲がるとき、安酒場の音楽が聞こえはじめる。それはこの場の終わりまで静かに続いている」。
妹・ステラに向けたブランチの台詞――あんた、私たちの育ちを忘れてしまったの? あの男(スタンリー)にだって紳士らしさがあるかもしれないとでも思ってるの? あるもんですか、ひとかけらだって! ああ、あの男が――ごく平凡な! 特にとりえのない人であっても――善良で健康であればいいわ。ところが――大ちがい。どこか――けだものじみたところがあるわ――あの男には!。
こちらはスタンリーの台詞――ステラ、さっき言ったろうが、この話はおれがいちいちたしかめたんだぜ! 最後まで聞けよ。レディー・ブランチがお困りになったのは、ローレルじゃあもう芝居をうてなくなったってことさ! どんな男だって二、三回デートすりゃあ、あの女の正体がわかって、おさらばってわけだ。そこであの女は次の男へ乗りかえる、そしてまたおんなじ芝居、おんなじ台詞、おんなじたわごとのくり返しだ! ところがこの芝居をいつまでもうち続けるにはあの町は小さすぎるんだな! そのうちにあの女は町の名物になっちまった。
ブランチとの結婚を真剣に望んでいたが、ポーカー仲間のスタンリーからブランチの正体を聞かされたミッチに対するブランチの台詞――そこよ、私が獲物をくわえこんだのは。(自分のグラスにもう一杯注ぐ)。そう、私は見ず知らずの人に次から次へ身をまかせたものだわ。(若い時の恋人の)アランが死んでから――見ず知らずの人に身をまかせること以外に、うつろな心を満たしてくれるものはないように思われた・・・ただもうこわかったから。こわさに駆り立てられて、次から次へ、私を守ってくれる人を捜し求め――あちらこちらと、見つかるあても――ないところまでほっつき歩き――とうとう、おしまいには、17歳の少年にまで――ところが校長あてに手紙を書いた人がいた――「この婦人は素行上教職には不適当であります!」。
この後、手練れの著者は思わぬ方向へストーリーを展開させていく。そして、悲劇的な結末が訪れる。
有名な作品を映画や芝居で見ると、どうしても出演者の演技に目を奪われがちになるが、原作を繙くと著者の着想や工夫の妙が見えてくる。原作を疎かにしてはいけないなと痛感した私。