筑紫哲也が、今のジャーナリズムを見たら、何と言うだろう・・・【情熱の本箱(51)】
学生時代から数十年に亘り朝日新聞を愛読してきた私にとって、最近の朝日新聞の相次ぐ不祥事は、何ともやり切れない。こういう事態に合わせたわけではないだろうが、朝日新聞の記者だった筑紫(ちくし)哲也を論じた『不敵のジャーナリスト 筑紫哲也の流儀と思想』(佐高信著、集英社新書)は、ジャーナリズムのあり方を考える際の恰好の一冊となっている。
朝日新聞の記者時代に、筑紫は「結局、何ヵ月かの停職ということになったのだが、この一件に象徴されるように、筑紫は思いつめて決断して、一本道を真っ直ぐに突き進むというタイプではなかった。ゆらりゆらりと揺れながら、懐深く自然体で歩くというタイプだった。これがまた、安倍(晋三)のような単純タカ派を苛立たせる」。身近で長年接した佐高信だからこそ、こういう深く掘り下げた評価が可能なのだろう。
ジャーナリストとしての筑紫の経歴は一見華々しく見えるが、事実は異なる。本人が、「旧態依然たる(朝日新聞)政治部の政治紙面を作ることに非常に抵抗しまして、上司と衝突してしまったんです。で、上司は面倒だからと、私を『(朝日)ジャーナル』へ飛ばしたわけです」と語っている。
筑紫は「筑紫哲也NEWS23」(TBS系)のニュースキャスターを長く務めたが、著者は、「筑紫はピッチャーのように見えて、実はキャッチャーだった。声低く語りかける筑紫は、優れた語り手である前に、何よりも優れた聞き手だった。『正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい』。吉野弘の『祝婚歌』の一節だが、これがまさに筑紫のスタイルだった」と述懐している。筑紫自身も、ニュースキャスターとして、久米宏や田原総一朗と自分はタイプが違うと自覚していたというのである。
1995(平成7)年10月、坂本堤弁護士一家がオウム真理教のメンバーによって殺害される直前に、TBSが坂本弁護士の未放映インタヴュー・ビデオをオウム真理教幹部に見せていた事実が発覚した。TBSは当初、否定し続けたが、やがて事実と認めた。この時、「筑紫哲也NEWS23」で筑紫が「TBSは死んだ」と発言したことで、世間の風圧を一身に受けることになる。「筑紫は、風圧の向こうを見ていた。風圧を受けていちいちへこんでいる暇があったら、こちらの思いをどう理解してもらうかを考える。そうやって逆に、風圧に対する耐性を高めていったように思う」。筑紫は、批判は覚悟の上だったのだ。
「筑紫本人が、『雑誌時代は短かったけれど、テレビでの自分のスタイルは編集者的なものだ』と自己分析しているのは、その通りだろう。言ってみれば筑紫は、『活字的骨のようなものが残ったテレビの人』だったと思うのだ」。
「筑紫の政治論を語る時、彼のジャーナリスト人生は『三本の軸』で貫かれていたことを踏まえておきたい。『少数派の立場に立ち続けた』こと。『沖縄への思い入れを持ち続けた』こと。『護憲の立場を崩さなかった』こと」。この「三本の軸」が筑紫の骨格を成していたというのだ。
「『戦後の最初の子どもたち』であった筑紫世代には、作家・ジャーナリストなら本田靖春や森村誠一ら時代や社会に迎合しない骨のある人物が、芸能・文化の分野には山田太一や永六輔、美輪明宏など異彩を放つ人たちが生まれたように思う。しかも彼らは、できたてほやほやの日本国憲法を受け取った。それは初々しい形で与えられた宝物だったのではないか。護憲の立場を崩さなかった筑紫の心の底には、そんな思いもあったような気がする。・・・いかに時代が進んでも、切り捨ててはいけない『普遍の価値』がある。憲法はそういうものだと、筑紫は判断しているのである」。
筑紫自身が、早稲田大学と立命館大学で行った講義で、このように語っている。「あの当時、憲法起草を急げとマッカーサーに言われて作ったのは、アメリカでニューディーラーと呼ばれていた人たちで、アメリカを新しく建て直していきたいという意欲に溢れた若い連中でした。後で、あまりに社会主義的だと非難されるのですが、フランクリン・ルーズベルト大統領のもとで理想を実現しようと張り切っていた連中です。そういういわば理想主義者たちが占領軍に集まって、世界で最も理想的な憲法を書くとすればどういう憲法なんだろう、と議論して出来上がったのが日本国憲法の草案なんですね」。
筑紫は多趣味である。旅好きの筑紫の文章――「私の旅の楽しみは、人間観察にあるといってよい。ホテルのロビー、駅の待合室、市場の屋台、盛り場のカフェ・テラス、公園のベンチ、場末の酒場と、場所は選ばない、行き当りばったりに腰を据えて、ただ人間を眺めている。それで、まず、飽きるところがないのである」。私も人間観察という趣味を持っているので、偶然の一致に驚いてしまった。
「そういった場所でよく遭遇したのが小泉純一郎だ。小泉は『筑紫哲也NEWS23』の最多出演政治家だが、コンサート会場で出くわした回数は『その数倍、いやもっと多くなるかもしれない』ほどだと、筑紫は『証言』している。『オペラ、クラシック、そして歌舞伎が好きな上に、その好きの程度がいささか度を超しているところが私と共通している』と、筑紫は言う。『政局が緊迫しているこんな時に』と思える頃でも、小泉は平然としてやって来て、さしもの筑紫も驚かされたようである」。興味深いエピソードだ。
もう一つのエピソードは、田中康夫に関する筑紫の発言。「私、小泉さんとか田中真紀子さんとかは、登場した時からそう思ってるんですが、歴史的なある使命を帯びて出てきたと思うんですね。ひとことで言えば、壊し屋です。長野県の田中康夫知事(当時)もそうです。彼は私の悪口を言い続けている人物ですが、それでも私が彼を評価しているのは、彼個人の人格うんぬんではなく、彼が強力な壊し屋だからです」。自分を批判する人物であっても、評価すべき所は評価するというのが筑紫の姿勢なのだ。
著者は、褒めるばかりでなく、筑紫に対する不満もきちんと書いている。「こと小選挙区制導入に関しては、筑紫が少数派の立場を貫き切れなかったことが残念でならない」。
「筑紫哲也の政治論は深く文化論に裏打ちされている。だからこそ凡百のジャーナリストの説く政治論とは異なる厚みがあるのだ」。辛口で鳴る佐高としては、最高の褒め言葉である。
「そもそも、政府の方針に遠慮して取材を自主規制するようでは、自由社会のジャーナリズムとは言えませんよ」という筑紫の言葉を、政権にべったりの現在のジャーナリストたちは何と聞くのだろう。