榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

裸を一切見せずに、それ以上のエロスを表現した向田邦子・・・【情熱の本箱(61)】

【ほんばこや 2014年11月24日号】 情熱の本箱(61)

図書館で司書をしている竹沢家の三女・滝子は潔癖症で、容易に男性を近づけない。「男女が互いに相手を信頼するためには、肉体的な結びつきも必要となる。しかし潔癖症の滝子にとって、性交は人間が野獣と化す行為に思えた。結婚の意志はあっても、愛の営みが大きな障害になっていた。父親の浮気に対する彼女の強硬な態度を、(四女の)咲子は『お母さんのためってよか自分のためって聞こえるなあ』と揶揄する。これは三女の痛いところを衝いた発言である。滝子の言動には母親の窮状を救うというよりも、男女のもめ事や性行為への嫌悪感の方が色濃く現われていたからである」。

「(勝又の)突飛な愛の告白であったけれども、滝子は愛されていることを知って安らぎを得る。二度目のアパートの場面で、彼女は前回のシーンとは打って変わって、穏やかな面持ちで自炊をしている。一匹のサンマに塩をふりかけ、ふと手を止める。その魚を見ていると、『勝又のさまざまな顔が浮かんでくる』。やがて彼女はサンマを二つに切る。想像ではあっても、食べ物を勝又と共有できることに、滝子は小さな幸せを感じた。自分でもおかしな心境の変化に『すこし笑う』。今まで笑うことのなかった彼女が初めて見せた笑顔だった」。

「(勝又は)三度にわたって『い、いいですか』と繰り返す。本当に抱いてもいいのか、彼女に念を押した。だが勝又は未経験と過度の緊張から、上手くリードすることが出来ない。遂には滝子の足を強く踏みつけてしまった。彼女は痛みをこらえながらも笑ってしまう。けれども滝子は笑ったことを後悔する。むしろ『このナイーブな男がいとおしくなる』。今度は彼女の方から彼を激しく求めた。二人はこれまで厳しく抑制してきただけに、今は堰を切ったように熱いものがこみ上げ、お互い相手にぶつけ合った。彼らは足許にある自分たちのメガネを踏んづけて、壊していることすら気がつかない。向田邦子はここでわざわざ一行ずつ空けて、『ひびが入るレンズ』、『ヒンまがるフレーム』と書き加えている」。

「向田邦子は同じような場面を再現することで、滝子の気持ちの変化を明示しながら、このシーンに軽妙な笑いをも用意する。(踏み台に乗った)三女は自分の尻が揺れるように、笑わせてほしいと勝又に頼み、『この前とおなじ気持に――なってもらえないかなあと思って――』と気恥ずかしそうに言う。相手のキョトンとした表情を見て取ると、彼女はさらに必死の顔つきで、『嫌だって言わないから――』と消え入りそうな声で促した。そこで勝又が足にしがみつくと、滝子はその『手をひっぱり上げて、自分の腰を抱かせる』。前回の場面では気持ちに齟齬があった。ところが今回は、勝又を受け入れたいという姿勢が鮮明に示され、二人は畳の上に転がり落ちても、抱き合ったまま相手を求め続けた」。恋する女の気持ちが巧みに表現されているこのシークエンスは、この作品中で私の一番好きな箇所である。

「滝子は愛の喜びを知って少し自信を持つ。異性に愛されることで、自分の価値を確認できたのである。二、三日経った夜、彼女は(次女の)里見家を訪れる。そのときの滝子は今までとは打って変わって、『甘い色のセーター』を着て『珍しく薄化粧』をしていた」。

「新妻の滝子は『声』ばかりか、顔の表情も明るく輝いている。それは内面にも及んでいる。支えを得て、心に余裕を持つことができ、すべての人に対して優しく接することが出来るようになったのである。・・・滝子は大切な人と暮らし始めて、寛容な態度を身につけたのである。今までであれば、浮気など絶対に許さなかった。けれども現在の彼女は、頭から否定するのではなく、浮気へ走った人の気持ちを察することが出来るようになっていた」。

向田邦子、性を問う――「阿修羅のごとく」を読む』(高橋行徳著、いそっぷ社)は、達意の脚本家・向田邦子の、昭和54年と55年に7回に亘って放映されたNHKのテレビドラマ『阿修羅のごとく』を材料に、向田の性に対する考え方を徹底的に追究している。このドラマは向田の代表作ともいうべき作品であるが、ここに描かれた竹沢家は、父親の浮気あり、母親の内攻した嫉妬あり、長女の不倫あり、次女の夫の浮気に対する悩みあり、三女の不器用な恋あり、四女の恋人の浮気あり、四女自身の浮気あり、姉妹間の確執ありと、世間の縮図のような、いやはや大変な一家なのである。

「彼女(向田)の描く人物は、普通に生まれ、普通に育ち、普通の人を好きになる女性ばかりである。そのような女性は、『普通の顔に菩薩の笑みを浮かべ、普通の顔をして心に鬼を棲まわせる。だから女は可愛いし、だから女は嫌らしい』のである」。

「老夫婦(姉妹の両親)間の微妙な変化に気づかぬ巻子(次女)に、ふじ(母)は『お金の苦労だの、やかましいなんてのは、苦労のうちに入ンないよ』とこぼす。金銭での悩みや夫の口うるさいことなどは、些細な問題にすぎないと述べている。そして言外に、夫の浮気ほど泣かされるものはないと匂わせているのである」。

阿修羅とは何か。「向田邦子は内面に潜む情動に焦点を当てている。日常生活のなかで何とか折り合いをつけてきたのに、ちょっとした弾みで疑念やねたみに振り回される人物の有様を、『阿修羅』と表現しているのである。前述の感情の揺れは、程度の差こそあれ、誰しもが心の中に潜ませているように思う。『阿修羅』の根幹をなす猜疑心、嫉妬心、闘争心は、すべての人間が持っている悪業なのである。おそらく人間は一生これらの業から逃げ出せないだろう。人生はきれいごとばかりではない。生きていくうえで、人間は必ず『阿修羅』をむき出しにする時が何度もおとずれるはずである。したがって『阿修羅』に性差はなく、男も女も内面に抱えている。ところが『阿修羅のごとく』を読むと、女性の『阿修羅』が頻度においても、また密度においても男性陣を圧倒している。その理由を考えると、まず思い浮かぶのは、女性が当時置かれていた社会的地位である。このシナリオが執筆された昭和50年代、主導権はまだ男性が握っていた。社会だけでなく家庭においても、男性が優位に立ち、女性は我慢を強いられた。その忍耐が限度を越えたとき、女性の『阿修羅』が間歇的に現われたのである」。

「向田邦子は、現在のように自由な表現が許されていても、おそらく裸のシーンは描かなかったと思われる。向田は読者の想像力に絶大な信頼を寄せていた。まともに描けば場面は固定されるが、暗示にとどめれば想像の翼は大きく広がり、今出来上がったばかりの新鮮なイメージが可能になるのである」。また、『阿修羅のごとく』の演出を担当した和田勉から問われて、「男と女の肉体関係の証である匂いは、爪に残るものよ」と答えている。向田は裸を一切見せずに、それ以上のエロスを表現したのである。

この作品の背景には、向田の実の父の浮気と、向田自身の秘められた恋――妻子ある年上のN氏との長年に亘る不倫関係が、向田の死後、妹によって明かされた――が存在していると、私は考えている。「向田邦子は恒太郎(父)の最初の浮気を、自分の家で実際に起こった出来事を思い浮かべて書いたように思われる。妹の和子は『向田邦子の恋文』のなかで、『邦子が24、5歳の頃、わが家は最悪の状態になりかけていた。・・・父がよそ見をし始めたのだ』と記している」。

私は、脚本家としては山田太一と向田が断然、他を圧していると考えているが、本書には、その向田のドラマづくりのエッセンスがギュッと詰まっている。同時に、向田ならびにその作品の魅力を余すところなく描き出した高橋行徳の筆力が冴え渡っている。