北斎の娘・応為はどのような生涯を送り、光と影の傑作を生み出したのか・・・【情熱の本箱(148)】
『眩(くらら)』(朝井まかて著、新潮社)によって、予て興味を抱いていた葛飾北斎の娘・応為(おうい)のことを詳しく知ることができ、お栄(応為)や親父どの・北斎、彼女の想い人・善次郎(渓斎英泉)がごく身近に感じられるようになった。
お栄は夫・吉之助(南沢等明)に不満を抱いている。「この男は何もわかっちゃいない。同じ絵師でありながら、筆を持ったら放したくなくなる身の熱さを知らない。吉之助を見下ろし、見据えた。そうさ、あたしは北斎の娘さ。なのにその才を寸分も受け継がず、のたうち回っている。もう20年近くも描いているのにいまだ線は弱々しく、色も思うようにならない。だから描きたい、もっと描きたいんだ」。間もなく、お栄は夫と別れ、北斎の工房で父の絵を本格的に手伝うようになる。お栄が数えで28歳頃のことだ。
「目を凝らせば、この世のどこもかしこもが色の濃淡で出来ていた。光が強く当たっているところは色が薄く、暗い場では色が沈む。そうか、光だ。光が物の色と形を作ってる。一瞬、わかったような気になって意気込んだ。が、いざ手を動かそうとしたら二進も三進も行かない。呻吟して外を出歩き、人を見、物を見た。それでも闇雲に下絵を描き続けるうち、目で見た通りの陰影は色の濃淡で表せるんじゃないかと考えついたのだ」。
「料理をする暇があれば筆を持っていたいのだと、お栄は肚の中で返した」。
数えで67歳の北斎は意気軒高である。「親父どのは、『隠居』と耳にした途端、眉を逆立てた。『俺は隠居なんぞしねぇと言い渡してあんだろう。俺には描きたいものがまだ、山ほどある』」。
滝沢馬琴も登場する。「江戸一の戯作者、曲亭こと滝沢馬琴は高慢で狷介な性分で知られている。しかも絵師を幾段も低く見るきらいがあって、親父どのとは犬猿の仲で有名だ。人嫌いが高じて、外出嫌いでもあるらしかった」。
善次郎がお滝という女と暮らしていることを知りながら、「一度限り。初めはそんなつもりで互いの帯を解いたのだ。去年の、秋草の頃である。あれから幾度、肌を重ねただろう。夕間暮れのお栄の家で、夜更けの工房の隅で。名も知らぬ小さな寺の、古い木立の蔭で忙しなく裾を捲ったこともあった。・・・善次郎があたしの中にいる。そう思うだけで、身の中心から重く激しい波が起きてうねった」。
お栄は数えで30の坂を越してなお、絵師としては鳴かず飛ばずであった。
「(1834年の)先年辺りからはお栄自身にもぽつぽつと絵の注文が来るようになり、落款を『應爲』としている。葛飾北斎改為一にあやかっての画号だ。あたしお画業を一心に為そう。天の思召しがあるのなら、他の何を捨ててでも絵筆で応えてみせよう。密かにそう決めて、といっても身震いするほどの決心だったわけじゃない。これが身過ぎ世過ぎのための稼業なのだ。幼い頃から筆を持ってきたものの、絵師としてはまだ修業半ばである」。この画号の謂れについては、諸説があるようだ。
時は流れ、1849年5月に北斎が満88歳で大往生を遂げる。「この裏長屋で独りで暮らしてもう丸5年になるけれど、滅法、忙しないのだ。日々の暮らしのためには師匠稼業をし、今日みたいな輩も追っ払わねばならない。『親父どのにはあたしがいたけど、あたしには、あたししかいないからね。・・・ふん、それが何だって言うのさ。そんなの、わかりきったことじゃないか。あんた、まだ(数えで)58だろ。これからだ』。お栄は煙管の火皿の中を火鉢に落とし、文机の筆架から筆を一本、手に取った。紙を畳の上に置き、絵具を入れたままにしてある絵皿に水滴を傾ける。親父どのが大画描きに臨んだのも、今のお栄とちょうど同じ歳だったのではないかと思い出して、『そうだ』と膝を打った」。
遂に、お栄は、彼女の代表作とされる「吉原格子先之図」に取りかかる。「あたしが見たのは確かに、夜の張見世だ。惣半籬の格子越しにずらりと遊女が居並んでいて、眩いほどの光が通りにまで溢れていた。そのままを写すなら真正面に格子の線を縦に何本も引き、客らは手前に描かねばならない。その目線で描いた方が、遊女らの顔もしっかりと表わせる。昔から吉原の図は遊女の姿を、とくに顔や衣装をいかほど見せるかが本目であり、親父どのも他の絵師らも皆、そうして描いてきた。それが絵を見る者の楽しみでもあったからだ。目を開いて、腕組みを解いた。西画じゃなく、かといって昔ながらの吉原図にもしたくないんだ、あたしは。『また何で、そんな難しいことに挑みたがる』。己に問うてみた。『挑む方が、面白いじゃないか』。そうだ、難なく描ける物をいかほど描いたって、己がつまらない」。
「見世の内部はあまり功妙に描き過ぎると、俗っぽくなる。遊女は20人ほどが坐っている、その心積もりで描くが、お栄はあえて顔のすべてを見せている遊女を唯一人に絞った。そして手前の通りには大きな影を作る。実際の陰影を写し取ろうとしたら、ちまちまとした点描にせざるを得ないだろう。けれどあたしは今、その逆をしようとしている。命が見せる束の間の賑わいをこそ、光と影に託すのだ。そう、眩々(くらくら)するほどの息吹を描く」。
全ての浮世絵の中で、見る者に最も強烈な印象を与える光と影の傑作は、こうして誕生したのである。
応為の生涯が評伝でなく、このように小説という形で描かれたことには、それなりの理由がある。第1に、その生没年も明らかでないように、信頼に足る史料が不足していること。第2に、当時の工房での絵画・版画共同制作というシステムでは、応為の画業が北斎のそれに紛れてしまい、彼女自身のものと判明している作品が少ないこと。第3に、その性格や生活態度、人間関係を描き出すには、小説のほうが適していること。本書は、小説というスタイル採用により、応為を現代に生き生きと甦らせることに成功している。