榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

宮本武蔵がMRに伝えたかったこと・・・【MRのための読書論(14)】

【Monthlyミクス 2007年2月号】 MRのための読者論(14)

宮本武蔵のエッセンス

MRの世界は担当病院、担当エリア、そして社内におけるライヴァルとの勝ち抜き戦であるが、ライヴァルとの戦いに勝つ前に、己に勝つ必要があることを、一流MRは知っている。

自分に勝とうとする時、そしてライヴァルに勝とうとする時、死を目前にした宮本武蔵が、熊本城下の西方にある金峰山の雲巌寺の洞窟・霊巌洞に籠もり、渾身の力を振り絞って書き残した兵法書『五輪書(ごりんのしょ)』(宮本武蔵著、渡辺一郎校注、岩波文庫)が恰好のテキストとなる。

宮本武蔵の伝言

武蔵の考え方、生き方を探るために、『五輪書』を先入観なしに読んでみよう[( )内は榎戸が補足]。
我道我道をよくみがく事肝要也(地之巻)。得意技を磨け。
能々(よくよく)工夫すべし(水之巻)。自ら工夫せよ。
他流(派)の道をしらずしては、我(二天)一流の道慥(たしか)にわきまへがたし(風之巻)。ライヴァルに学べ。
此一書の内を、一ケ条一ケ条と稽古して・・・(水之巻)。着実に一歩ずつ進めよ。
たへず稽古有るべき事也(地之巻)。継続は力なり。
物毎のさかゆる拍子、おとろふる拍子、能々分別すべし(地之巻)。緩急のリズムを知り、大きな流れを読め。
けふ(今日)はきのふ(昨日)の我にかち・・・(水之巻)。常に自己を革新せよ。

これらの主張からも、武蔵が当時には珍しい合理主義者であったことが窺えるが、望蜀を承知で言えば、個人の鍛錬法にとどまらず、組織の強化策についてももっと教えてもらいたかったと思う。

宮本武蔵の実像

武蔵が戦った相手は、吉岡一門と佐々木小次郎を除けば名もない武芸者ばかりだから、武蔵は言われるほど強くはなかったという説がある。直木賞にその名をとどめる直木三十五の「武蔵非名人説」がこれである。これに「武蔵名人説」を唱えて反論したのが菊池寛である。この論争で直木の攻撃のそばづえを食ったのが吉川英治であり、その回答として提出されたのが、長編小説『宮本武蔵』(吉川英治著、講談社・吉川英治歴史時代文庫、全8巻)であった。

日本の数ある剣客の中で最も人気があるのは、やはり宮本武蔵だろう。その武蔵が著した『五輪書』が1974年に、吉川の『宮本武蔵』が1980年に、米国で英訳、刊行されベストセラーになったこともあって、武蔵の名は今や海外でも知られている。

ところが、多くの人々の心の中に生きている武蔵は、残念ながら、武蔵の実像とはかなり異なっている。小説『宮本武蔵』の中で、お通に慕われ、剣の修行を通して己を磨いていく求道者・武蔵は、苦労人の吉川が自らの思いを託した「吉川」武蔵なのである。そうは言っても、作家の想像力は創造力に通じる。純文学に固執する評論家が何と言おうと、『宮本武蔵』が日本文学の最高傑作の一つであることは、発表以来今日に至る読者の変わらぬ支持が証明している。

吉川英治が武蔵の実像を追究する研究者としても一流であったことは、彼の『随筆 宮本武蔵』(吉川英治著、講談社・吉川英治歴史時代文庫『随筆 私本太平記』所収)で知ることができる。彼がこの書で、「史実として、正確に信じてよい武蔵の正伝は、僅々百行にも足りない」と述べているように、武蔵の生涯は多くの謎を秘めている。

この謎ゆえに、論争が起こり、多くの作家や研究者が武蔵を取り上げてきたのである。謎の奥に潜む武蔵の実像に迫ろうと試みたのが、『真説宮本武蔵』(司馬遼太郎著、講談社文庫)、『宮本武蔵の生涯』(森銑三著、『森銑三著作集(第9巻)』所収、中央公論社。出版元品切れ)、『考証 宮本武蔵』(戸部新十郎著、PHP文庫。出版元品切れ)、『新編 実録・宮本武蔵』(早乙女貢著、PHP文庫。出版元品切れ)である。

少しでも武蔵の真実に近づきたいという思いが、このように私たちを武蔵に引き寄せるのであろうが、謎に包まれた武蔵本人が、確かな手がかりを一つだけ残している。『五輪書』がそれに他ならない。

最後に、武蔵と同時代人の証言を引いておこう。徳川将軍家剣術師範・柳生但馬守宗矩(柳生十兵衛三厳の父)の弟子で免許皆伝を受けた渡辺幸庵が、「但馬にくらぶれば、碁にていへばセイモク(井目)も武蔵強し」と、武蔵の段違いの強さを認めている。