榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ヒトは、なぜ、不合理なデザインや機能を抱え込んでいるのか・・・【MRのための読書論(170)】

【ミクスOnline 2020年2月20日号】 MRのための読書論(170)

不合理なデザイン・機能

人体、なんでそうなった?――余分な骨、使えない遺伝子、あえて危険を冒す脳』(ネイサン・レンツ著、久保美代子訳、化学同人)は、ヒトの進化の途中で、このデザイン・機能はまずいな、不出来だなと気が付いても、もう間に合わないケースが結構あると指摘している。進化は後戻りできないため、生じてしまった、合理的とは言い難い、妙なデザインや機能を抱え込まざるを得ないのだ。

そのまずいケースの中で、とりわけ興味深いのは、「後ろ向きになっている網膜」、「壊れて機能しないDNAやウイルスの死骸をたくさん抱えているゲノム」、「賭け事にはまり易い脳」の3つである。

網膜

「いびつな自然のデザインとしてもっとも有名な例は、魚類から哺乳類にいたるまで全脊椎動物が持っている網膜だ。脊椎動物の網膜の光受容細胞は後ろ向きになっている。つまり、ワイヤ部分が光のほうに向いていて、集光器たる光受容器は光に背を向け、内側に向いているのだ。光受容細胞は、マイクのような形をしている。つまり、この細胞の一方のさきにはマイクの集音器に相当する光受容器がついていて、もういっぽうの端はアンプに信号を送るケーブルにつながっている。眼球の奥に位置しているヒトの網膜では、この小さな『マイク』がすべて、光と逆の方向に向くようにデザインされている。そしてケーブルの出ている側が前、つまり光のほうに向いていて、マイクのさきはなにもない組織の壁のほうに向いているのだ」。

「これは明らかに、最適なデザインとは言えない。光子は後ろ向きになった光受容器にたどり着くために、光受容細胞の隙間を進まねばならない。マイクを反対方向に向けて話しているとしたら、マイクの感度を上げるか、大声で話さないかぎり、マイクは機能しないだろう。視覚でも同じ原理があてはまる。さらに、このすでに十分無駄で複雑なシステムに、別の無駄な複雑さが加わる。つまり、光は細胞の薄い膜や血管さえも通り抜けて光受容器にたどり着かねばならない。いまのところ、なぜ脊椎動物の網膜が後ろ向きに配置されたのかという理由を説明する有効な仮説はまだない。僕には、ランダムに進んだ変貌の結果、にっちもさっちもいかなくなっただけのように思える。ときどき起きる変異――進化がその道具箱に入れている唯一の道具――でこれを正すのは非常に難しい」。なお、タコやイカなどの頭足類の網膜は反転していないと付記されている。

ゲノム

「僕たちのゲノム――各細胞のなかに保持しているDNAの情報全体のこと――には、機能がわからない荒涼とした広がりがある。この使用されていない遺伝物質はかつて、役に立たないとみなされていたため、ジャンクDNAと呼ばれていたが、このジャンクな部分から機能が発見され、この呼び名の人気は衰えた。たしかに、いわゆるジャンクDNAの多くが、今後、実際はなんらかの目的を果たしていることが明らかになるかもしれない。とはいえ、僕たちのゲノムがどれほど多くのジャンクを抱えているかに関係なく、僕たちみんなが機能していないDNAを大量に持っていることには疑いの余地がない。本章では、この真の遺伝学的なガラクタについての話をする。ガラクタというのは、僕たちの細胞を散らかす壊れた遺伝子やウイルスの副産物や、役に立たない複製や無用なコードのことだ」。

「ヒトゲノムの役に立たないDNAのなかでも、ズバ抜けて奇妙なタイプが一つある。それが偽遺伝子だ。この遺伝学的コード配列は、ぱっと見は遺伝子のようにみえるが、遺伝子として機能はしていない。これらは、かつては機能していた遺伝子が、遠い過去のどこかの時点で修復できないほど変異した進化の遺物だ。・・・壊血病のおかげで、GULOはヒトの偽遺伝子のなかでもとくに有名になったが、偽遺伝子はこれだけではない。ヒトのゲノムには多くの壊れた遺伝子が潜んでいる。じつを言うと、相当どころではなく、数百、いや1000をも超える。ヒトゲノムには、2万近くの遺伝子の完全な遺物が含まれていると、複数の科学者が推定している。こうなると、壊れた遺伝子の数は機能している遺伝子とほぼ同じ数になる」。

「偽遺伝子は、あとのことなど気にしない自然の容赦ない性質を示す一つの教訓だ。・・・進化には目標が定められていない、というより定められない」のだ。

「ギャンブルのときに人々が下す浅はかな選択は、ヒトの精神にある欠点の一つを示している。ひょっとすると、もっとも明らかな、そしてもっとも注目に値することは、それが日常生活のほかの面にもあてはまることかもしれない。・・・とくにカジノでみられる一般的な心理学的認知エラーの一つが、『賭博者の錯誤』である。これは、ランダムに起こる出来事がしばらく起こらなければ、起こる確率が上がると考えたり、ランダムに起こる出来事が起こった直後は同じことが再び起こりにくいと考えたりすることだ。出来事が関連していないと仮定すると、この考えは完全な思い違いだ。人生の多くの状況を同じく、ギャンブルでは過去と現在とはなんの関係もない。・・・賭博者の錯誤はなんのせいだろう? 進化だ」。

「(ギャンブラーの)人々は、勝っているときに勝負をやめられない(で、結局、賭博場に巻き上げられてしまう)だけでなく、すでに落とし穴にどっぷりはまっているときも、なかなかやめられない。誰かが(あるいは自分が)こう言っているのを何度か耳にしたことはないだろうか? 『あと一回だけ。そうしたらきっと取り戻せる』とか、明らかにまちがった考えの『これだけ負けつづけたのだから、そろそろ勝つはずだ』とか。これは真実からほど遠い。なぜなら、確率はつねに賭博場に有利に働くからだ。調子が悪いときにやめられないのは、サンク・コストという心理的錯誤と関係があるのかもしれない。・・・サンク・コストの錯誤は、人がなにかに時間と努力と金を費やし、それを無駄に使ってしまったと思いたくないときにいつも現れる。もちろんそれは理解できるが、理屈とかけ離れている」。この部分は、カジノ法案(統合型リゾート整備推進法案)を何が何でも押し通そうと躍起になっている連中に読ませたいものだ。

進化という宿命ゆえ、決して完璧ではない存在だからこそ、ヒトが愛おしいのだという著者の姿勢に、共感を覚えるのは私だけだろうか。