塩野七生と共に、想像力、プロとアマの違い、倫理と宗教について考える・・・【続・リーダーのための読書論(81)】
塩野七生
『日本人へ――リーダー篇』(塩野七生著、文春新書)を読んで、3つのことが印象に残った。
想像力
第1は、想像力についてである。「(組織において)こうなると、想像力の分野になる。これまでの学歴にも今の地位にも無関係な個人の想像力による勝負、としてもよい。胸に手を当てて、自分ならばどうするだろう、と考えるだけなのだから」。「俗人であるわれわれは、こうなるとやはり、自分だったら何をしてもらいたいか、と考えそれに忠実に行動するのが、最も容易でしかも確実な解決法ではないかと思う。なぜならこれだと、想像力の有無でしかないのだから」。
「想像力が動き出すのは、疑問をいだいたときからだ。疑問をいだくのは、壁に突き当ったからである。秀才とは学業成績の良い人のことだから、これまでに壁に突き当ったことがないか、あったとしてもごくまれだった人たちなのだろう。となれば疑問をもった回数も少なく、当然ながらその疑問を解決しようとしたあげくに、想像力に訴えるしかないと思い至るまでの苦痛も、さして経験したことはないにちがいない。想像力も筋肉の力に似て、訓練を重ねていないと劣化してしまう。だからであろうか、学校秀才には想像力に欠ける人が少なくない。『いかなる分野でも共通して必要とされる重要な能力が、一つある。それは想像力だ』とは私の言ではなく、500年昔にマキアヴェッリが遺した言葉である。『自分ならばどう考えるだろうか』を、あらゆることのスタート・ラインにしてみてはどうであろうか」。全く同感である。なお、「一流大学出身者とは、受験時に、暗記力と受験テクニックに秀でていた人間に過ぎない」とは、私の言葉である。
プロとアマの違い
第2は、プロとアマの違いについてである。「自己反省は、絶対に一人で成されねばならない。決断を下すのも孤独だが、反省もまた孤独な行為なのである。自分と向き合うのだから、一人でしかやれない。もしかしたら、プロとアマを分ける条件の一つである『絶対感覚』とは、それを磨くことと反省を怠らないことの二つを常に行なっていないかぎり、習得も維持もできないものなのかもしれない」。
倫理と宗教
第3は、倫理と宗教についてである。「キリスト教会という組織体を、宗教組織とは思わずに、国家とか企業とかの世俗型の組織と考えたらどうだろう。世俗型の組織ならば、こうも長きにわたって成果が表われないのでは、まずもってトップは更迭されるだろうし、それではすまずに組織自体が存在できなくなるだろう。ところがキリスト教会くらい、長く存続してきた組織もないのである。発生時から数えれば、2000年もの長きにわたってつづいているのだから」。「そのうえキリスト教もイスラムも、成果が出ない場合に実に適した『理論武装』までしている。神の教えに従わなかったから、というのがそれで、成果に結びつかなかった責任は、それを説いた神にではなく、説かれたのに実行を怠った人間のほうにあるというわけだ。私は共産主義には同意できないが、宗教はアヘンであると言ったマルクスには、同感しないでもない」。
「ここが最も重要な点なのだが、信仰という行為が多くの善男善女にとって大切なことである以上、他者の信ずる神の存在を許容するという考え方は、他者の存在も許容するという考えと表裏関係にあるということである。これを、多神教時代のローマ人は、『寛容』(クレメンティア)と呼んでいた。というわけだから、宗教をもたないと言って非難してくるキリスト教徒やイスラム教徒がいるとすれば、それに対してできるわれわれ日本人の反論は、多神教徒ゆえの『寛容』を旗印にかかげることにつきる。多神教が伝統であるがゆえに他の宗教を信ずる人々への寛容性も、まるで肉体を流れる血になっているのが日本人である、とでも言えばよい」。さすが塩野、この作戦には脱帽だ。
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