榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

北条時宗は、世界に誇れる素晴らしい男だ・・・【続・リーダーのための読書論(90)】

【amazon 『男の肖像』 カスタマーレビュー 2020年7月28日】 続・リーダーのための読書論(90)

塩野七生

日本人の歴史上の人物を論じることの少ない塩野七生だが、エッセイ集『男の肖像』(塩野七生著、文春文庫)では、14人中4人を日本人が占めている。

その中で、とりわけ興味深いのは、北条時宗に対する非常に高い評価だ。

モンゴル襲来

「(ヨーロッパや中近東にすさまじい影響を与えた)モンゴルに征められながら、これを撃退した民族は、日本人だけである。・・・北条時宗の短い人生は、モンゴル襲来にはじまり、モンゴル襲来にくれた一生であった。・・・しかも、17歳から33歳までの16年間である。未曾有の国難、という表現がおおげさでないこの時期、蒙古対策の正面に立ち、事実上の最高指導者でありつづけたのが時宗だった。朝廷は、異国降伏祈祷をしているだけでよかっただろうが、幕府は、実際の防衛態勢をととのえるのに必死であったにちがいない」。

「若い執権は、再三におよんだフビライからの、表面上は国交を求めながら裏では武力攻略を匂わせる国書に、1度として返書を与えていない。それどころか、2度にわたって、元使を斬り捨ててさえいる。これは、一見、外交官特権を無視した野蛮なる振舞いにみえるかもしれない。だが、これに対する欧米の反響ならば、心配する必要はない。対モンゴルであった、というだけで許されるだろう。なにしろモンゴルの残虐さときたら有名で、彼らの通過した後は、犬の吠える声もきこえず、鳥の鳴く声もなく、子供の泣く声もきこえない、といわれたほどである。対馬に上陸したモンゴル兵は、捕えた女たちの手の平に穴をあけ、そこに縄を通してじゅずつなぎに連行した、という記録もあるのだ」。

「日本が、この一見平和愛好的な国書を受けて交渉に入ったとして、誰が、高麗や南宋のように、日本も奴隷化しなかったと保証できよう。交渉に応ぜず、はじめから武力防衛に方向をしぼった時宗は、相手がモンゴルであっただけに、的確な判断をくだしたと思われるにちがいない」。

「(諸国の武士たちに、命のかぎり防戦せよと)命令を下し、武士たちをこのような(たとえどのようなことがあっても、この日本を異賊には奪われまいぞという)気分にさせることに成功した当時の時宗は、24、5歳のはずである。並みの男のできることではない。神風は、元軍敗退の主要因ではなく、幸運なる一要因ではなかったろうか」。

北条時宗

「『北条九代記』は、この時宗の死に際し、次のように記述している。――長年天下国家の政道に昼夜その心を砕き、朝晩これを考えつづけ、まだ栄華の盛りを、も過ぎないで、命がたちまちにお尽きになってしまったのは、実に悲しいことであった――。フビライが死ぬのは、この後10年を経た1294年である。時宗は、元軍来襲の風聞を聞きながら、死ぬしかなかったのである。その彼の胸のうちは、どのようなものであったろう。33歳で燃えつきようとする男の胸中は、いかばかりであったろう。神国日本を、誰よりも信じていなかったのは、時宗ではなかったろうか。しかし、神風を喜ぶ民衆を、喜ぶがままにさせる有効さを知っていたのも、時宗だった。われわれは、ヨーロッパが狂信の十字軍時代を過ぎ、ようやくルネサンスの黎明に染まりはじめていた時代に、早くも醒めていながら実行力も兼ねそなえた男をもったのである。しかも、700年後の欧米の大向うさえ、うならせることうけあいの男を」。

時宗が大好きな私は、辛辣な人物評価で知られる塩野がここまで時宗を絶讃していることを知り、最高の気分高である。