元寇に立ち向かった若きリーダー・北条時宗の決意・・・【情熱的読書人間のないしょ話(518)】
散策中に、コサギが水中の獲物に狙いを定め、飛びかかり、魚を捕らえたところを目撃しました。ヒメウラナミジャノメの翅の裏と表をカメラに収めることができました。飛んでいるルリシジミは美しい青色ですが、翅を閉じているときの色は淡泊です。因みに、本日の歩数は10,540でした。
閑話休題、『北条九代記(下)――武家と公家』(作者不詳、増淵勝一訳、教育社新書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)のハイライトは、日本の若きリーダー・北条時宗が元寇に敢然と立ち向かった場面です。
「相模守北条時宗は鎌倉にいたままで九州の武士をうながして、防戦のための軍備をさせ、兵糧や秣にいたるまで欠けたところのない用意をした。『もし蒙古軍が強力で九州が陥落するようなことがあれば、東国の軍兵を上京させ、帝・東宮を守護し申し上げ、本院・新院を関東へ御幸させ申そう。また九州の成り行きによっては、両六波羅の兵を九州へ向かわせ、命のかぎり防戦し、勲功のあった者には恩賞を行なおう。天下の大事とはこの時である』と命令を下された。諸国の武士たちはこれを聞いて、『たとえどのようなことがあっても、この日本を異賊には奪われまい。忠義一途の戦いに功績を上げ、たくさん賞をいただこう。これは世間によくある反逆とはちがってそれぞれ自分自身の一大事なのである』と、軍兵たちはみな鋼を鳴らして武威を示し、歯をくいしばって憤りを感じたのであった」。
「(弘安4<1281>年)8(閏7)月1日の正午頃に、急に大風が吹き起こって大木を根こそぎにし、岩や石を吹き飛ばし、海中には激しい波を立てたので、蒙古の数万艘の船どもは組み合せたかけ金がすべてちぎれて、右往左往に吹き乱れ、岩に当り波に打たれて、皆すべて沈んでしまった」。幸いにも、日本は台風に救われたわけです。
「この頃、亀山の新院および鎌倉の北条氏をはじめとして京・鎌倉の間で禅宗を崇敬し、これを深く信仰なさることが流行って、他の諸宗のどれよりもはるかに信者が多かった」と、禅宗の流行にも言及しています。