『ツァラトゥストラ』で、ニーチェは何が言いたかったのか・・・【情熱の本箱(346)】
『ニーチェ ツァラトゥストラ』(西研著、NHK出版・NHK「100分de名著」ブックス)は、3つの魅力を備えている。
魅力の第1は、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェが『ツァラトゥストラ』で言いたかったことは何かが、分かり易く解説されていること。
「19世紀ドイツの哲学者ニーチェの主著『ツァラトゥストラ』は、正確に訳せば『ツァラトゥストラはこう言った』という四部構成の書物です。書かれたのは1883年から85年、ニーチェが40歳前後のころです。この本は彼自身にとって、とても重要な意味をもつ本でした。『かつて人類に贈られた贈り物のなかでの、最大の贈り物』と後に述べたほど、彼はこの本に大きな自負をもっていたのです。この後に書かれた彼の書物は、すべてが『ツァラトゥストラ』に込められた思想をもう一度自分で詳しく解説するといった趣があります」。
ニーチェが言いたかったことを、大胆にまとめると、「固定的な真理や価値はいらない。君自身が価値を創造していかなくちゃいけない」ということになる。自分がどんどん楽しくなってくる、アイディアや想いが溢れてくる、そんな方向を自分で見つけていかなくちゃいけないというのだ。
「前半の第一部と第二部のテーマは『超人』です」。
「『超人』とは何でしょうか。一言でいえば『神に代わる新たな人類の目標』です。『神は死んだ』のですから、それに代わって人類がめざすものが必要になる。それをニーチェは『超人』と呼び表したのです」。
「『神は死んだ』とは、直接にはキリスト教の神が信じられなくなっていくことを指しています。しかしそれは同時に、これまで信じられてきたヨーロッパの最高価値すべてが失われてしまい、人々が目標を喪失してしまうことをも表しています。このような事態をニーチェは『ニヒリズム』という言葉で呼びました。・・・(そのために人間が生きようとする)理念がぼんやりしてしまい、人々が何を目指してよいのか、何のために生きているのかがわからなくなる。そうした状態がニヒリズムなのです」。
「後半の第三部と第四部では『永遠回帰』の思想が大きなテーマになります」。
「人生のあらゆるものが永遠にそっくりそのまま戻ってくることが『永遠回帰』なのですが、その思想はあなたを『打ち砕く』かもしれない、とニーチェはいいます。なぜなら、自分が忘れてしまいたい最悪の過去も戻ってくるからです。きわめて貧困で劣悪な家庭環境に育ち、だからこそ、豊かで幸せな家族を夢見てがんばってきた人がいるとしましょう。しかしその人がいくらがんばっても、幼いときの貧困で劣悪な家庭はふたたびめぐってきてしまう。つまり、永遠回帰がもし真実であるとすれば、『こんな過去はなかったことにしたい』という思いで必死にがんばっている人は絶望してしまうかもしれません」。
「ニーチェは、永遠回帰を受け入れることができるかどうかが、人間を弱者と強者に振り分ける肝心カナメの点だと考えました。永遠回帰を受け入れられる人こそが強者であり『超人』になりうるというのです」。
魅力の第2は、ニーチェに逆らうことになろうと、著者・西研自身の考え方が率直に表明されていること。
「『ツァラトゥストラ』を理解するうえで大切な言葉を2つ覚えていただけたらよいと思います。1つは『ルサンチマン』で、もう1つは『価値転換』です。・・・(ルサンチマンは)じっさいには『うらみ・ねたみ・そねみ』を意味します。ニーチェが用いたことで、思想の用語として広く知られるようになりました。ぼくはニーチェ自身がルサンチマンにとらわれていたと確信しています。・・・このルサンチマンがなぜ問題かというと、ぼくなりの言い方をすると『自分を腐らせてしまう』からです。より二-チェに即していいますと。悦びを求め悦びに向かって生きていく力を弱めてしまうことがまず問題です。そして『この人生を自分はこう生きよう』という、自分として主体的に生きる力を失わせてしまうことが2つ目の問題点です。ルサンチマンという病気にかかると、自分を人生の主役だと感じられなくなってしまうのです」。
「ニーチェはさらに、ルサンチマンこそがキリスト教――すなわちヨーロッパの文化のすべての基礎となっている『神』――を生み出したと考えています。しかしこのルサンチマンから生まれた文化は、なんら創造性を持たない。ルサンチマン批判は、ヨーロッパの文化総体の批判へとつながり、さらにこれまでの価値を根底的に転換せねばならぬという『価値転換』の主張へとつながっていくのです。・・・神様とか天国といったものは、人間が苦悩に耐え切れず苦痛を逃れるためにつくり出したものだというのです。・・・『善/悪』の僧侶的価値ではなく、『カッコいい、おもしろい、わくわくする』という貴族的価値のほうへ、人は固定的な善や真理を守って生きるのではなく、みずから創造性を発揮していかねばならない。その意味で、ニーチェは『まさにいまこそ価値は転換されねばならない』と考えていました。『ツァラトゥストラ』の核心は、キリスト教の正体を暴いて、新たな人類の価値と方向を示そうという点にありました」。
「ぼくはニーチェが創造性を強調する点には共感しますが、人権と民主主義という近代の思想を『安楽』という点で批判するのは間違っていると思います。なぜなら、一人ひとりの個人の自由な活動を保障するものが『人権』であり、人権は人々が創造的な活動をなしうるための基本条件というべきものだからです。また、合意によって政治を行なおうとする『民主主義』も、もしそれがうまく機能するならば、地域や社会を自分たちでよりよいものとして創りあげていく、そのような創造的な営みとなりうるはずです。創造性の条件として、近代の人権と民主主義を考える。この視点は、ニーチェがついに持ち得なかったものだと思います」。
「もちろんこうした(永遠回帰の)説明が『フィクション』であることは、ニーチェ自身は十分に自覚的だったでしょう。つまりこれはあくまでも、それぞれの人が自分の生を肯定できるための新たな『物語』だったのです。これまでキリスト教は『あの世の物語』を人々に与えてきました。それは『心清くして正しく神様の教えを守ってきた人は、死後に浄福な天国に行く幸せを得られる』というものでした。しかしいま『神は死んだ』わけですから、『あの世の物語』に代わってニーチェは生きることを肯定するための新しい物語を提供しなければなりません。その物語は人々に非常に厳しい生き方を迫るものではある。でも、それを受け入れることによって、必ずや自分の生を肯定するほうへとつなげていけるはず――とニーチェは考えたのです。人生には苦悩があります。そして苦悩と無力感からは『ルサンチマン』つまり反動的な復讐心が生まれます。しかし永遠回帰は、『もしお金持ちに生まれてさえいれば』『もしもっと容貌がよかったら』、そんな『たら・れば』を無効にしてしまう。そして、他ならぬ自分の人生を『これでよし、もう一度』と肯定するほうに向かわせる――このような生の肯定のためにつくられた物語が『永遠回帰』なのです」。
「永遠回帰の思想の中心にあるのは――これはぼくの解釈ですが――『悦びを思い出すこと』であると思います。ルサンチマンやニヒリズムにひたっているとき、人は悦びを忘れてしまっています。人を好きになったこと、何かをつくり出したときの達成感、何か人にしてあげたら心から喜んでくれたこと、そんな悦びを忘れてしまっているのです。悦びを忘れた人に向かって、永遠回帰の思想はこういうのです。『ねえ、君の人生のなかにも、ほんとうに素敵なこと、確かにあったでしょう。だったらさ、ブーたれていないで、これからの人生で素敵なことを汲み取ろうとしなくちゃいけないんじゃないの?』と」。
「ニーチェの思想には足りないところもあります。『一人で』がんばって創造的になっていこうとする、という点です。それに対してぼくは、一人でがんばらないほうがよい、『何が大切なことか』を互いに語り合って確かめ合うことが大切だ、ということを、このテキストのなかで強調しました」。
魅力の第3は、135年前の著作『ツァラトゥストラ』の教えを現代の私たちがどう生かせばいいのかが示されていること。
「ニーチェは、おそらくこんなふうにいうと思います。『君が主体性と悦びをもって生きていきたいと願うのなら、時間はかかっても、(東日本大)震災が起こってしまったことを受けとめて、恨みや後悔の気持ちを噛み殺して前に向かなくちゃいけない。やっぱりそういうことになると思うよ』と」。
個人的に気になったことが1つある。「ニーチェは『この人を見よ』のなかでチェーザレ・ボルジアが『超人』に近いようなことをいっていますが、『悪くても強い』ことがニーチェにとっては大切なことでした」という一節である。55年前に『この人を見よ』を読んだ時には、チェーザレ・ボルジアに言及していることに気づかなかったからだ。早速、『この人を見よ』を読み直してみなくては。