夜な夜な、本が愛し合い、新しい本が生まれていた・・・【山椒読書論(185)】
てやんでえ、すっとこどっこい、駄洒落や軽口が分からねえ奴は引っこんでろい!――と言わんばかりの『本にだって雄と雌があります』(小田雅久仁著、新潮社)は、戯作の匂いがぷんぷんする。井上ひさしが『手鎖心中』を引っ提げて登場した時に雰囲気が似通っているのだ。
大阪の広大な敷地を有する旧家の書庫では、夜な夜な、隣り合った本同士がコトコトカタカタと合体して、新しい本が生まれる。それらの「幻書」と呼ばれる本たちは、鳥のようにバタバタ羽ばたいて外へ飛んでいこうとするので、まじないを込めた蔵書印を押した上で、紐で縛ると、幾分大人しくなる。
これは、今は亡き祖父・深井與次郎の蔵書にまつわる秘密を知ってしまった「私」が、祖父を初めとする一族の面々と、祖父の幻書蒐集のライヴァル・鶴山釈苦利(しゃっくり)の波瀾に富んだ驚くべき歴史を、一人息子に伝えるために書き綴った手記である。
「しかし問題は與次郎の書物蒐集癖である。苦しい言い訳を重ねながらせっせと蔵書を肥やす與次郎であったが、生涯に亘ってしつこいぐらいに繰りかえした一等お気に入りの言い訳があった。それが、書物がナニして子供をこしらえる、というやつで、深井家においては、あの言い訳は與次郎のすかしっ屁のように当たり前に漂っていたから、誰も吸いこまずにはおれなかったものだ」。
「実際、書物には明白に相性というものがある。どれとどれが、と鼻の利かぬ人間に言いあてられるものでもないが、その相性のいい好きあった惚れあった二冊の本を偶然にでも書架に並べ置いたが百年目、確かに子供をこしらえたとでも言いあらわさねばすまない現象が起きる。その一連の進みゆきを與次郎は『本が騒ぐ』と言い、『子ォを産んだ』と言っていた」。
「與次郎曰く、『おい、ひろぼん(私のこと)。本いうんはな、読めば読むほど知らんことが増えていくんや。どいつもこいつもおのれの脳味噌を肥えさそう思て知識を喰らうんやろうけど、ほんまは書物のほうが人間の脳味噌を喰らうんや。いや、脳味噌だけやないで。魂ごと喰らうんや。せやから言うてな、わしみたいにここまで来てまうと、もう読むのをやめるわけにいかん。マグロと一緒や。ひろぼん、知ってるか。マグロは泳ぐんやめたらな、息できんようなって死んでまうんやでェ』というわけで、結局、與次郎は書物と喰いつ喰われつの果てしない格闘を生涯に亘って継続することを選択した」。
「(君のお母さんと文通を始めた頃のことだが)本棚を見ればその人が分かる、というような言葉を聞いたことがあるが、それが事実だとすれば、どんな本が好きだ、こんな本が好きだ、などと小出しに打ち明けあうのはまさに精神のチラリズムであり、心の服を一枚一枚剥いでゆくようなイメージが浮かんでしまうのだ」。
「・・・などと口から出まかせの見解を缶ビール三本分のほろ酔い機嫌で君のお母さんのお耳に入れたところ、『普通に普通に読め読め、阿呆阿呆』などと身もふたも底も取っ手もないことを言われてしまった。・・・ちなみにお母さんの毒舌はただの毒舌ではなく、れっきとした商売道具なのであり、おそらくは君もすでに知るとおり、お母さんは筆先より毒汁滴る書きっぷりであまねく知れわたる気鋭の書評家なのだ。しかしそんなお母さんが荒んだ胸中を吐露するところによると、歯に衣着せぬにもほどがあると煙たがられるその書評の実体とは、歯に衣着せた上に婆シャツも着せてジャージも着せてちゃんちゃんこも着せて十二単も着せて宇宙服も着せてさらにガンダムのコクピットに押しこんだぐらいに本来の毒の希釈せられたものであるらしい」。
與次郎や釈苦利の域には遠く及ばないにしても、本好きの私にとっては、これらの書物に取り憑かれた人々の物語は決して他人事とは思えないのだ。