榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

のんびりとした気分が味わえる池内紀の山里巡り・・・【山椒読書論(320)】

【amazon 『ニッポンの山里』 カスタマーレビュー 2013年12月2日】 山椒読書論(320)

ニッポンの山里』(池内紀著、山と渓谷社)の効能は、「のんびりとした気分が味わえる」ことである。

著者が全国の山里を巡るのだが、特別な事件は起こらない。「ここにとりあげた三十の山里は、ほぼこの十年間に訪れた。おおかたが足の便の悪いところで車にたよらなくてはならなかったが、駅なりバス停から歩いたこともある。たいてい坂のきついうねうね道をたどっていった。歩く人はめったに見かけなかったが、かつてはみなが歩いたことは、道そのものが示していた。人の足がひらいた道であって、うねっているのが自然なのだ」。

「山里はきまって突然あらわれる。曲り角を一つまがったとたん、あるいは坂を登りつめると、この身はすでに只中にいる。畑にトウモロコシがみのっていて、前方に納屋と母屋、縁側のゴザに豆が干してある。山道が一瞬でかき消えて、暮らしのまっ只中にいる。あまりの急転ぶりが腑に落ちず、しばらくぼんやりと佇んでいる。あらためて見まわすち、斜面に点々と屋根が見える。こんもりしたのは鎮守さまの杜だろう。町から隔絶したような一角に、レッキとした山里の暮らしがある」。こう書かれたら、読まずにいられないではないか。

「三山巡り 山形県・本道寺」の最後は、こう終わっている。「バス停でバスを待っていると、杖のかわりに乳母車を押したおばあさんがやってきた。顔が合うと足をとめて腰をのばした。毎朝、運動しているので足は丈夫だと言って、幼稚園児のはくような運動靴を見せてくれた。「おいくつですか?」 「ハイ、来月で九十二になります」 歌うような声を残して、ひとけない旧街道をゆっくりと遠ざかった」。これは、もう一幅の俳画の世界だ。

「山上集落 埼玉県・風影」は、このように締められている。「見晴らしをたのしむのはやめにして、すぐまたトットと小道にもどった。人の声がいちどに消えて、風だけがサワサワと枝を吹き抜けていく。縁側に折りたたんだ新聞と湯呑み茶碗が置かれているところをみると、ご当主は昼のイップクをされたあと、裏の畑へでも行かれたらしい。そういえば、草を刈ったときにおなじみの甘ずっぱいような匂いが漂ってくる。そっと庭先を拝借して、少し遅いが昼食にしよう。若い父親時代と同様に、おにぎりと電車代だけで気持のいい一日が過ごせる。昔の人は年寄りのたのしみを『シワのばし』と言ったそうだが、心のシワも少しはのびてくれるだろう」。懐かしい田舎の情景と匂いが甦ってくる。

「古民家考 埼玉県・栃本」の最後の一節には、食欲をそそられる。「わらび、たらの芽、やまうどなど、四季おりおりの山菜がとれる。鹿や猪がいて、鹿さし、猪鍋がいただける。渓流にはアユ、ヤマメがいる。アユのささ巻き、ハヤの甘露煮、ソバまんじゅう・・・。空気が澄んでいると、やたらに腹がすくものだ。落合にもどって道の駅付属の大滝温泉で汗を流し、よく歩いたゴホービに山里のごちそうにありつくとしよう」。これぞ、極楽、極楽。

私は牧場を眺めるのが好きだ。「牧場の夢 群馬県・内山」の一節は堪らない。「一面の牧草地にカラマツがちらばっていた。いくつもの窪地があって、そこに谷川が走っている。サイロに牛舎、牧夫小屋、チーズ工場。どの建物もどっしりとした山家風」。「物見山に登ると、名前どおり展望がいい。北アルプスから八ヶ岳、蓼科山、浅間山、さらに秩父の山々が見わたせた」。「南は黒木の山ばかりで、それがうちかさなり、ちょうど若葉をつけたころで、めまいを覚えるような景色だった。淡い黄色をつけた笹原が金色のしま模様をつくっていた。神津牧場のほかにも物見山の西の山裾に志賀牧場、南麓には内山牧場がある。上信国境のこの辺りは、わが国で珍しい酪農地帯としてひらかれた。もともとまわりに『馬収』『野牧』、あるいは『萱』のつく地名がちらばっているように、牛馬の放牧に適していたのだろう」。「それから沢沿いの道を歩いて初谷(しょや)温泉へ行った。小さな鉱泉宿で、つい最近まで宿の人が薪を割り、湯をわかしていたそうで、いまでも煙突のけむりがただよっているようなけはいだった。湯は少し赤っぽい。湯上がりにフキみそをサカナにビールをいただいた。汗をしぼったあとだったので、気が遠くなるほど旨かった」。これで、妻との次の旅行先は決まりである。牧場巡りの後、鄙びた鉱泉宿で、気が遠くなるのだ。