牧野富太郎の疾風怒濤の植物愛・・・【山椒読書論(777)】
牧野富太郎について、予て3つの疑問を抱えてきた。第1は、牧野に学歴がないのは貧乏のせいか、第2は、牧野は学歴がないのに東京大学で教えることができたのはなぜか、第3は、牧野は日本植物学の父と称されているが、その業績は何か――の3つである。
『牧野富太郎の植物愛』(大場秀章著、朝日新書)のおかげで、これらの疑問が氷解したのである。
●牧野に学歴がないのは貧乏のせいか――
貧乏どころか、土佐の豪商の跡取り息子だったのに、型に嵌った学校教育よりも、独学で好きな植物学を究めようと自ら決断し、生涯、それを貫いたのである。
●牧野は学歴がないのに東京大学で教えることができたのはなぜか――
研究仲間の東京大学植物学教室の教授・松村任三から助手のポストを提供されたのである。
●牧野は大植物学者と称されているが、その業績は何か――
植物の多様性を科学的に究める植物分類学の専門家として大成し、成果の一端である学名を通して今日の社会にも重要な役割を果たしている。なお、牧野が発見した植物の新種は1000を超えると言われている。
「名前を知ること。富太郎にとってそれは、未知のものと真に出会う儀式のようなものではなかったか。シラヤマギクの場合だけではない。『本草綱目啓蒙』は、植物名を知るための手引書であると同時に未知のものを富太郎に知らしめる偉大な先生となったのだ」。
「永沼(小一郎)と山野を歩くなかで、富太郎は『似て非なる』かたちをした植物が多々あることに段々と気付くようになった。その後、富太郎は佐川村や近在の山野を歩いて、そうした『似て非なる』植物を見つけては、それらを分別することに熱中した」。
「得た知見を、植物を愛好するすべての人に提供したい。そんな願いが、創刊されたばかりの『植物学雑誌』への協力とつながっていくのは自然な流れだった。決して専門家だけでなく、市井の人々の植物愛にも応えたい。好きという気持ちがひとつの使命に変わる時、そこには信念が生まれる」。
「富太郎は出入りを許された東京大学の植物学教室で、ただちに研究を開始する。・・・入学せずとも学び舎あり。ここでも、こころざし一本で道を拓く富太郎の姿勢が見て取れる。生涯通じて変わらぬ彼の学び方である」。
「明治26(1893)年9月11日、富太郎は東京大学(当時は帝国大学理科大学)の助手に採用された。・・・しかも待遇面でもかなりの高給で、富太郎が手にした最初の給与は月額15円だった。・・・なにしろ植物分類学では、生きた個体だけでなく標本を用いて分析することが研究に欠かせない。しかし、創立から間もない東京大学が収蔵する標本は数が少なく、標本の収集自体が重要な課題であり、研究上の急務となっていた。そのため植物の標本整理や採集を富太郎はたびたび命ぜられていた」。
「50歳となる富太郎は大学講師になり、それまでの助手という身分と異なり、教室で慣習化していた講義を担当するはずだった。がしかし、富太郎は従来と変わらず植物研究と論文発表に多くの時間を費やし、実際には講義や実習は担当しなかったようだ。ここでもマイペースな富太郎の独り歩きが窺える。分類学実験及び野外学習の一部を担当するようになったのは、59歳になった大正10(1921)年頃からである。・・・植物分類学を専攻したほとんどの学生に富太郎は尊敬されていたといえるだろう」。
「昭和2(1927)年、富太郎は学位を請求する論文を東京大学に提出する。審査の結果、同年4月16日に理学博士の学位を授与された。・・・大学はおろか小学校さえ中退した者に学位を授与した大学人の広い度量に、富太郎は深い感慨を覚えた」。
「昭和14(1939)年、富太郎は東京大学を辞めた。77歳だった」。
「『牧野日本植物図鑑』は、植物学者としての富太郎の名を不滅のものとしたといってよいだろう。数にして3206図を伴う、1069ページに及ぶ大著であった。初版発行後も増補が続けられ、図の数もページ数も増加した」。
<天性植物が好きであったから、その間どんな困難な事に出会ってもこれを排して愉快にその方面へ深く這入り這入りして来て敢て倦む事を知らず、二六時中ただもう植物が楽しく、これに対していると他の事は何もかも忘れて夢中になるのであった。こんな有様ゆえ、時とすると自分はあるいは草木の精じゃないかと疑う程です。これから先も私の死ぬるまでも疑いなく私はこの一本道を脇目もふらず歩き通すでしょう。そうして遂にはわが愛人である草木と情死し心中を遂げる事になるのでしょう>と、晩年に述懐している。享年94。