榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

紫式部の「もののあはれ」と本居宣長の「もののあはれ」は考え方が正反対というのは本当か・・・【山椒読書論(819)】

【読書の森 2024年9月18日号】 山椒読書論(819)

『教養としての文明論』
対談集『教養としての文明論――「もう西洋化しない」世界を見通す』(呉座勇一・輿那覇潤著、ビジネス社)の私の書評の最終段落は、「本居宣長の『もののあはれ』――宣長の有名な『もののあはれ』論は、『源氏物語』帚木巻の『雨夜の品定め』に出てくる『もののあはれ』の一節を、強引に普通の読みと正反対に解釈している。この解釈を是とするのは、もはや宣長への信仰と言える」となっている。この紫式部と本居宣長の「もののあはれ」に対する考え方が正反対という驚くべき指摘が私の好奇心に火をつけたのである。

『源氏物語』の原文はどう書かれているのか、訳者たちはどう現代語訳しているのか、本居宣長の『紫文要領』(『源氏物語玉の小櫛』の先行著作で、「もののあはれ」論が初めて登場する)の原文にはどう書かれているのか、それはどう解釈されているのかを知りたくなってしまったのである。

源氏物語の原文とその現代語訳(その1)
小学館の「日本古典文学全集」の『源氏物語(1)』(阿部秋生・秋山虔・今井源衛校注・訳)(写真1)(では、<事が中に、なのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知りすぐし、はかなきついでの情あり、をかしきにすすめる方なくてもよかるべしと見えたるに・・・>は、「何よりもなおざりにできない夫の世話という点からみると、情緒に過敏でありすぎて、ちょっとした折に風情をきかし、趣味方面に身を入れるというようなことは、なくてもよかろうと思われますが・・・」と訳されている。

源氏物語の原文とその現代語訳(その2)
正訳源氏物語(1)』(中野幸一訳、勉誠出版)(写真2)では、原文を挙げて、「いろんな仕事の中でも、何よりもなおざりにできない夫の世話という点から申しますと、情緒を知り過ぎてちょっとした折にも風情があり、趣味の面に入れこむようなことは、なくてもよかろうと思われますが・・・」と訳されている。

輿謝野晶子の現代語訳
手許の『全訳 源氏物語(上)』(輿謝野晶子現代語訳、角川文庫)では、「妻に必要な資格は家庭を預かることですから、文学趣味とかおもしろい才気などはなくてもいいようなものですが・・・」と簡潔に訳されている。

林望の現代語訳
私の愛読書『謹訳 源氏物語(1)』(林望現代語訳、祥伝社文庫)では、「妻の仕事のなかで、まずいい加減にしてはいけないのは、夫の世話ということに違いない。しかし、そういうことについて、あまりにも、趣味的過ぎるってのも困りものです。で、別段どうということもないような事柄にまで、いちいちそのご趣味を振り回されると、そりゃ余計なことだがなあと思われたりもする」と訳されている。

『紫文要領』の原文とその解釈(その1)
「新潮日本古典集成」の『本居宣長集』(日野龍夫校注)(写真3)所収の『紫文要領』では、<世帯むきさへよくば、花紅葉の折節の情、風流なる方はなくても事欠くまじきやうなるものなれども、何ごとにもすぐれてよき人とするには、風流の物の哀れを知らではいと口惜しき、となり>は、「風流はなくても不足はないようなものだけれど、何事にも優れてよき人は風流の物の哀れを知っていなくてはいけない」と解釈されている。

『紫文要領』の原文とその解釈(その2)
岩波文庫の『紫文要領』(子安宣邦校注)(写真4)では、<ことが中になのめなるまじき人の後見の方は物の哀れしり過ぐし、はかなきついでのなさけあり、をかしきにすゝめる方なくてもよかるべしと見えたるに、・・・是れは家内の世話をする事につきて、其の方の万事の心ばへをよく弁知したる也。世帯むきの事は、ずいぶん心あるといふ人也。世帯むきさへよくば、花紅葉の折節のなさけ風流なる方はなくても、事かくまじきやうなる物なれども、何事にもすぐれてよき人とするには、風流の物の哀れをしらではいと口惜しきと也>の冒頭の『源氏物語』引用部分(アンダーライン部分)については、「物事をいい加減ではすまさない人は、家事の面でも心遣いが十分によく行き届いていて、ちょっとしたことにも情け(思いやり)がある。「後見」とは、背後にあって世話をすること、家内のこと、家事。「をかしきにすゝめる方」とは、情趣の一層深い方面。宣長は「花紅葉の折節のなさけ風流なる方」と解している」と注が付されている。

『源氏物語玉の小櫛』の原文とその解釈
岩波書店の「日本古典文学大系」の『近世文學論集』(中村幸彦校注)(写真5)所収の『源氏物語玉の小櫛(抄)』と、筑摩書房の「日本の思想」の『本居宣長集』(吉川幸次郎編)(写真6)所収の『源氏物語玉の小櫛』では、宣長の「もののあはれ」論が縦横に展開されている。