ユダヤ民族とアラブ民族のルーツは一つだった・・・【続・独りよがりの読書論(7)】
ユダヤ民族とアラブ民族がこれほどいがみ合うのはなぜか。その直接の原因は、1948年、ユダヤ民族がアラブ民族の反対を押し切ってパレスチナの地にイスラエルを建国したことにある。この建国に反発したアラブ諸国とイスラエルとの間に第1次中東戦争が勃発して以来、1973年までの25年間に4回の戦争が起こり、対立は抜き差しならないものとなっていった。中でも1967年の第3次中東戦争では、イスラエルがヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原を占領するが、この間の経緯を知るには『イスラエルとパレスチナ』(立山良司著、中公新書)が最適である。
それでは、ユダヤ民族がアラブ民族との厳しい戦いを覚悟してまで、パレスチナにイスラエルを建国したのはなぜなのか。紀元70年に祖国が滅亡したため世界各地に離散せざるを得なかったユダヤ民族にとって、かつて祖国があったパレスチナの地に自分たちの国を再建することは1800年余に亘る民族の夢であった。パレスチナこそユダヤ民族がユダヤ教の神から与えられた「約束の地」だからである。ユダヤ民族とユダヤ教は分かち難く結び付いている。ユダヤ教という心の支えがあったからこそ、自らの国を持たぬが故の迫害と苦難に耐え、異民族の間に埋没せずにユダヤ民族として存続することができたのである。このようなユダヤ民族を理解するには、ユダヤ教の聖典である旧約聖書の知識が必要となるが、その時、恰好の道しるべとなるのが『ユダヤ人』(村松剛著、中公新書)と『驚くべき旧約聖書の真実』(竹内均著、同文書院。出版元品切れ)である。
これは本題からそれるが、現在のユダヤ民族の大部分は旧約聖書に登場するユダヤ民族とは何の関係もない人々だと主張する『ユダヤ人とは誰か』(アーサー・ケストラー著、宇野正美訳、三交社)という本は、実に刺激的である。
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ユダヤ民族のユダヤ教に相当するのが、アラブ民族にとってのイスラーム(「イスラーム教」でなく「イスラーム」が正しい)である。イスラームはアラブ民族の発想、行動の原点であり、日常生活の枠組みとなっている。イスラームのアウトラインを知るには『イスラームの心』(黒田壽郎著、中公新書)が手ごろであり、アラブ民族を理解しようとする時には『最新・誰にでもわかる中東』(小山茂樹著、時事通信社)が役に立つ。
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ここではっきりさせておきたいことは、ユダヤ民族は存在するが、ヒトラーがこの世から抹殺しようとしたユダヤ人種というものは存在しないということである。人種というのは共通の遺伝的形質を持つヒトの自然的分類であり、あくまでも生物学的概念である。これに対し、民族は文化に基づいて他と区別される集団を意味する。そして、驚いたことには、ユダヤ民族とアラブ民族のルーツは一つだったのである。ごく大まかに言えば、紀元前2000~1800年ごろメソポタミアから移動してきたセム語族に属する言語を話す人々のうち、パレスチナの海岸に近い地域に住み着いた半農半牧の民がユダヤ民族となり、砂漠を遊牧する民がアラブ民族となったのである。
さらに言えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラームのルーツも一つである。これら3つの宗教では、それぞれヤハウェ、エホヴァ、アッラー(アラー)と呼称は異なるが同一の唯一神が信奉されている。キリスト教はユダヤ教の分派であり、イスラームはユダヤ教とキリスト教を土台としている。紀元前4年ごろに生まれたイエスは、自分たちユダヤ民族だけでなく人類すべてが神の前に平等であると説いて、ユダヤ教の民族主義的選民思想を批判した。これがキリスト教の始まりである。このためイエスはユダヤ教の指導者の怒りを買い、ローマの官憲の手で十字架に掛けられたと、キリスト教の聖典・新約聖書に記されている。一方、紀元571年ごろ生まれたムハンマド(マホメット)は、自らを、ユダヤ教を確立したモーセ(モーゼ)やイエスに続く最後の預言者(予言をする者ではなく、神の言葉を預かって語る者)と位置づけ、神の前には預言者も含めすべての人間が全く平等であると説いた。これらはイスラームの聖典・クルアーン(コーラン)に神の言葉として記録されている。
因みに、ユダヤ人の大量虐殺を行ったヒトラーには、「ヒトラー=ユダヤ人説」が生前から一部で囁かれていたが、この説を追究した『アドルフ・ヒトラーの一族――独裁者の隠された血筋』(ヴォルフガング・シュトラール著、畔上司訳、草思社)は、説得力のある興味深い一冊である。
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ユダヤ民族とアラブ民族のこれからの関係はどうなるのか。パレスチナ問題をいかに解決していくかが最大の鍵となる。2006年にイスラエルのシャロン首相が、パレスチナとの和平を目指して、思い切った占領地撤退も辞さないという姿勢を示し、実際にガザ地区からは全面撤退を実行したのである。そして、パレスチナとの交渉ではなく、一方的に国境を確定しようと国民に訴えた時は、状況が一気に進展するのではないかと期待を抱かせたが、その直後にシャロンが脳卒中で倒れ、現在も昏睡状態にある。そのうえ、パレスチナ側で反イスラエル強硬派のイスラーム原理主義組織ハマスが実質的に政権を握ったため、和平交渉は膠着状態に陥っている。しかし、「イスラエルに隣接するパレスチナ独立国家の建設→イスラエルとの共存」という形で和平が達成される日もそう遠くはないと、私は考えている。
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『究極の宗教とは何か』(佐藤進著、社会評論社)は、著者が工学博士という立場からキリスト教、イスラーム、仏教の共通点と相違点を研究したユニークな好著である。この書の圧巻は、「人間が想像した神は、フォイエルバッハが言うように人間自身にほかならない。神の本性(本質)は人間の本性(本質)でしかない」という指摘である。すなわち、神というものは人間が想像力によって創造したもので、尊敬に値する理想的な人間像が投影されたものに過ぎないというのだ。フォイエルバッハの透徹した眼は、キリスト教における神とはしょせん人間――ただし、傑出した人間――にほかならないということを見抜いたのである。
このようにキリスト教を鋭く批判して、当時のヨーロッパ社会に一大衝撃を与えたフォイエルバッハの思想の詳細は、『キリスト教の本質』(ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ著、船山信一訳、岩波文庫、上・下巻。出版元品切れ)によって知ることができる。
『立花隆の無知蒙昧を衝く』(佐藤進著、社会評論社)は、『究極の宗教とは何か』の著者が、遺伝子問題から宇宙論まで、立花隆の最先端科学に関する著作の数々を俎上に載せて、その無知蒙昧ぶりを痛切に批判した痛快極まる本である。
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