恋の短歌に酔い、老いの短歌に震える・・・【情熱的読書人間のないしょ話(148)】
散策中、行く夏を惜しむかのようなツクツクボウシ、ミンミンゼミ、アブラゼミの蝉時雨の中を抜けると、ザクロがたくさん実を付けていました。秋になると赤く熟し、硬い外皮が裂けるとのことです。因みに、本日の歩数は18,134でした。
閑話休題、『人生の節目で読んでほしい短歌』(永田和宏著、NHK出版新書)は、「若かりし日々」、「生の充実のなかで」、「来たるべき老いと病に」の章で構成されています。
「若かりし日々」の中の「恋の時間」に収録されている「抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う――岡井隆『斉唱』」を口ずさんだとき、甘酸っぱい思いが甦ってきました。「男は女性を抱きよせ、ふと髪の湿りに気づく。女性もその男の意識のかすかな振れに反応して、さっきまで見ていた野の雨の美しさを言ったのかもしれません。抱き合いながら、互いの腕のなかで別の時間と場所の想念を共有する、そんな場面が想像されます」。
「朝に階のぼるとつさに抱かれき桃の罐詰かかえたるまま――川口美根子『空に拡がる』」もいいですね。「『桃の罐詰かかえたるまま』に、思いがけない『とつさ』の出来事であったことが暗示されます。階段の途中、しかも桃の缶詰を抱えているのに、それごと抱きしめられてしまった。うれしい驚きであったことは間違いありません」。
「夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと――河野裕子『森のやうに獣のやうに』」には、興味深い解説が付されています。「胸に抱かれて、ただその鼓動だけを聴いていた時間。ほんの短い時間であったはずなのに、記憶のなかでその時間は、抱かれていた女性には、はるか未生以前の時間の長さにもつながっていくような時間として刻まれていった。さすがにこの歌を正面から鑑賞するのは、われながら恥ずかしい思いがしますが、この一首に詠われている『君』は私。私たちは『幻想派』という同人誌を創刊するということで集まり、初めて出会った時からお互い強く意識するようになりました」。これは、私の好きな歌人で、著者の亡き妻・河野裕子の作品なのです。
「来たるべき老いと病に」の中の「老いの実感」に載せられている「頭(づ)を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄りは宮柊二なり――宮柊二『緑金の森』」には、私自分の年齢を感じさせられてしまいました。「誰からも隔たって、一人孤独をかこっているような、あまりなりたくない老い人。それがほかならぬ宮柊二、私そのものなのだと突き放す。こんなふうに突き放し方の手際が良くないと、老いはただただ嘆きと愚痴ばかりの歌になりやすい。宮柊二は、老いていく自分を嘆いているように見えながら、実はもっともっとしたたかに、ある意味では老いてゆく自分をおもしろがっているような余裕さえ見せて、自分を客観視するだけの精神の自由と強靭さをもっている作家なのでした。老いを嘆きの対象とはしないで、自然体で楽しむ余裕をもつ。これはとても難しい課題で、実際に私が老いた時、どんな老人になっているのか自信はありませんが、しかしそういう自然体で対象を見ることができるような位置に自分を置いておきたいとは思うのです」。
「病を得て」の「死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ――上田三四二『湧井』」も心に沁みます。「私たち人間は、死という絶対消滅点は、誰にも訪れるものだとは知りつつも、それがいつということは知らないからこそ生きていけるのかもしれません。しかし、その『死』がまさにそこに立っている。それゆえにこそ『生きてゐる一日一日はいづみ』という感じ方がリアリティをもってきます。限られた時間だからこそ、今という時間が掛け替えのないものとして『いづみ』のように感じられるというのです」。