榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

戦後、GHQに逆らって混血孤児収容施設を創設した沢田美喜・・・【情熱的読書人間のないしょ話(201)】

【amazon 『GHQと戦った女 沢田美喜』 カスタマーレビュー 2015年10月20日】 情熱的読書人間のないしょ話(201)

散策中に、あちこちで紅葉したホウキギ(ホウキグサ、コキア)を見かけました。緑から赤へと変色する途中のものもありました。帰路の途中で、大きな夕日が沈むのを目撃することができました。因みに、本日の歩数は10,817でした。

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閑話休題、『GHQと戦った女 沢田美喜』(青木冨貴子著、新潮社)によって、いろいろな疑問が氷解しました。

第1は、沢田美喜は、なぜ戦後、混血児収容施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を開設しようと思ったのかということです。当時46歳の美喜が神奈川県・大磯にエリザベス・サンダース・ホームを創立したのは1948(昭和23)年のことでした。「黒い嬰児の死体を目の前で見てから、美喜の戦いは始まった。両方の国から要らないといわれる混血児(進駐軍兵士と日本人女性との間に生まれた子供)たち。親からも邪魔者扱いされ、闇から闇へ葬られる子供たちと運命をともにする決意をした美喜の気持ちのなかには、好奇の目で見られる子供たちを守りたい、この子たちを幸福にしたい、と願い、そのためなら進駐軍と戦うだけの気概もあった。しかし、そればかりでなく、戦争によって巨万の富を蓄えた岩崎の家に生まれたことに対する贖罪の気持ちが、美喜をこの仕事に駆り立てたのではなかったか」。「混血児たちを集めて日本語と英語の二カ国語で育て、将来は日米両国の間で役に立つ人間に育てたいというのである」。美喜は、1980年に亡くなるまでに、560名の混血孤児を含むおよそ2000人の孤児を育て上げたのです。

第2は、進駐軍(GHQ)は、なぜ美喜の計画を妨害しようとしたのかということです。「進駐軍に誰ひとり立ち向かえなかったアメリカ一辺倒のあの時代、米兵のおとし子のための施設をつくることはGHQに歯向かうことにほかならなかった」。「子供の母親たちは混血児を生んだという恥を隠すために、父親について何も語らず、子供を殺すか、捨てることになるという。生き残った子供の多くは混雑した鉄道の駅や皇居前の広場、あるいは公衆便所などで発見される。肺炎にかかっていることが多く、市内の公立の孤児院に引き取られる。公立の施設は不潔で非衛生的な場所である。・・・米軍は混血児を引き取るつもりなど毛頭ないばかりか、その存在を消したいと考えていたことは明白であった」。「米軍が日本人女性に子供を生ませている現状が本国に明らかになる。軍はこのような道徳的頽廃を、ワシントンに知られてはならないのだった」。「美喜と進駐軍との戦いは、占領が終わる昭和27年(1952年)ごろまで続いた。サムス(GHQ公衆衛生福祉局長、准将)をはじめとする数名のなかなか手強い相手が、ホーム設立から4年というもの、手をかえ品をかえ、ホームの転覆を謀ったが、美喜は最後まで屈しなかった」。

第3は、美喜は、どういう女性なのかということです。美喜は、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の長男・久彌の長女です。大きな家で50人もの使用人にかしずかれながら育った、岩崎本家の令嬢なのです。「三菱財閥の家に生まれたものの、跡取りの長男だけを大切にする土佐の気風に反発し、父が男爵であるにもかかわらず華族をきらい、華族との結婚を拒否するなど、強いものには反発し、弱いものの側に立つその反骨精神は見事としか言いようがない」。

本書には、美喜の計画を物心両面で支え続けたポール・ラッシュや、聖路加国際病院長のルドルフ・トイスラーも登場します。ポールは山梨県・清里高原を開拓したことでも知られていますね。

美喜は1953年に、朝日新聞のインタヴューにこう答えています。「あたくしは再軍備絶対反対。とくに戦争の後始末(混血児問題)を仕事としてやっている身ですもの、戦争はもうまっぴら。武器を持ってるから武器に制されるのよ。剣の下に天国はございません」。自分が正しいと信じたことに向かって突き進む美喜が、現在の日本政府の動きを知ったなら、猛然と噛みつき、直ちに反対行動を開始したことでしょう。