榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「時」の経過ということを、改めて考えさせられた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(212)】

【amazon 『33年後のなんとなく、クリスタル』 カスタマーレビュー 2015年10月30日】 情熱的読書人間のないしょ話(212)

散策中に、2羽のハシブトガラスが盛んに鳴き交わしているところに行き合わせました。恋の語らいでしょうか。少し先で、今度は2羽のハシボソガラスを見つけました。都会派のハシブトガラスは「カァー、カァー」と澄んだ声で鳴き、額が出っ張っています。一方、田園派のハシボソガラスは「ガァー、ガァー」と濁った声を出し、額はすっきりしていますので、区別がつきます。秋にモンシロチョウを見かけると、頑張れよと声をかけたくなります。因みに、本日の歩数は11,081でした。

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閑話休題、『33年後のなんとなく、クリスタル』(田中康夫著、河出書房新社)を読んで、「時」の経過ということを、改めて考えさせられました。

33年前に発表され、話題になった『なんとなく、クリスタル』(田中康夫著、河出文庫)の登場人物たちの33年後の物語です。

「記憶の円盤」が戻ってくると、33年前のことが生き生きと思い出されるという形で、当時と現在の出来事が交互に描かれていきます。この記憶装置の設定に影響されて、私も自分の人生を振り返ってしまいました。

「33年前、大学卒業直前に停学処分を喰らって留年し、ある意味では人生最初の大きな挫折を経験した僕は、5月の連休明けから学内の図書館で、生まれて初めて取り組んだ小説を書き上げ、同月末が締切日だった『文藝賞』に応募する。僕よりも3歳年下の由利は、その処女作に主人公として登場した」。

「『違うわよ。みんなそれぞれ、いろんな人生を積み重ねて、年齢を重ねて、だから今、ヤスオに会ってみたいのだと思うわ。自分の話を聞いてもらいたいのだと思うわ。あなたの話も聞きたいのだと思うわ』。由利は、僕を見つめて語り掛けた。嬉しい話だ。でも、少し綺麗事すぎるセリフじゃないかな」。由利の言葉どおり、登場人物たちが、その後、それぞれの人生を歩んできたことが明らかにされていきます。

「卒業後に1年半だけ腰掛け的に東京で働いた彼女(由利の友人の江美子)が神戸の実家へ戻り、父親の知人のお膳立てで巡り合った相手と結婚するまで、僕たちは幾度かベッドをともにしている。その江美子は、1年も経たぬうちに離婚することとなった。結婚相手の男性は実母との間に、『乳離れ』出来ない『お肉の関係(ペログリ)』が続いていたのだ」。

「語りながら僕は、奔放だった江美子とも『ペリグロ』したのが学生時代に発覚して、ヤスオったら、もぉ~っ、キーッ、と由利がお冠だったのを思い出した。もしや、彼女にも記憶が過ぎっているかな」。

「由利は僕を見つめる。そうして囁いた。『ねえキッスさせて、ヤスオ。あの日と同じように』。唇を、合わせる。すると、然しもの『記憶の円盤』をすべては捉えきれぬほどに数多くの、30数年間のさまざまな場面が眼瞼に映し出される。次第に由利の花唇も開いていく。あたかも抽送を繰り返すかのように、二人の舌が絡まり始める。樽熟成の効いた芳醇な体躯のヴィーノ・デッラ・パーチェとお互いの唾液が、混ざり合った」。ペダンティックな文章表現は、『なんとなく、クリスタル』をそっくりそのまま踏襲しています。

「『透き通ったガラスのイメージ』と由利が感想を述べた処女作にも、その作者の僕にも、さまざまな毀誉褒貶と向き合い続ける『宿命』が与えられた。そうして、学生でモデルだった彼女の人生も大きく変動し続ける。淳一との共生、1年半後の解消、化粧品会社への就職、ロンドンへの留学、PRオフィスの設立。二人で落ち着いて話をする機会も得られぬまま、歳月だけが流れていった。が、その間、彼女はずうっと、『吉野由利』という一人の人間のありようを探し求め続けてきたのだ」。

『なんとなく、クリスタル』の最後は、「淳一と私(由利)は、なにも悩みなんてなく暮らしている。なんとなく気分のよいものを、買ったり、着たり、食べたりする。そして、なんとなく気分のよい音楽を聴いて、なんとなく気分のよいところへ散歩しに行ったり、遊びに行ったりする。二人が一緒になると、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。だから、これから10年たった時にも、私は淳一と一緒でありたかった」となっていました。

これに対し、本書では、「するとその瞬間、由利が醍醐(精進料理で知られる店)の窓際へ歩き進めながら呟いた科白もリフレインされた。『きっと、いろんな壁が待ち受けているんだろうな。でも、それは私だけに限ったことじゃない。だから、これからも私、歩んでいくんだわ。他の人からは、同じ場所に立ち止まっているようにしか見えなくとも・・・。うん、そうよ。身の丈に合った自分の生き方で、歩んでいくのよ』。僕は、立ち上がる。これから戻る席の方を見やると、鳶茶色した床の木目に沿って、雨が止み終えた窓の外から光の筋が射し込んでいた。たそがれどき。かわたれどき。姿見の前に座り、窓ごしに交差点を、そして表参道のケヤキ並木を眺めた時、そのどちらにより近い光の加減に思えるだろう。僕もまた、その先に向かって歩み出す」と結ばれています。誰の上にも、間違いなく、「時」の経過が刻まれていくことを再認識させられました。