天正遣欧少年使節4人の勇気、賢明さ、使命感、そして悲劇的な運命・・・【情熱的読書人間のないしょ話(246)】
久しぶりに東京・神宮外苑の黄葉したイチョウ並木を訪れました。皇居の濠の水面に、黄色いイチョウと緑のヤナギが寄り添うようにして映り込んでいます。因みに、本日の歩数は16,735でした。
閑話休題、稀代の読書家・出口治明が、ある著者の中で薦めていた『クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国』(若桑みどり著、集英社文庫、上・下巻)を読み終わりました。この上・下巻合わせて1,000ページもある長篇歴史小説を徹夜して読み上げてしまったというのですから、恐るべき出口の読書力です。
織田信長が本能寺で討たれる直前に、九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、ヨーロッパを訪れるべく日本を発った4人――伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティーノ、中浦ジュリアン――を中心とする天正少年使節団が、その使命を見事に果たして8年5カ月後に帰国した時、日本の状況は激変していました。信長によってキリシタンが優遇されていた時代とは様変わりして、豊臣秀吉のキリシタン追放政策が始まっていたからです。
著者が渾身の力を込めたこの作品から強く印象づけられるのは、4少年の勇気、賢明さ、使命感の強さです。これらが愛情を持って生き生きと描かれているのは、国内外の史料を渉猟した著者の気持ちが籠もっているからでしょう。「いつも優等生すぎるマンショが、いつも先頭を切ってなにか不得手なことをやるときの、がんばりとその本音を出しているのがおもしろい。彼は自分の外交的使命を自覚し、不得手なことも一所懸命、日本人の恥になるまいとしてがんばっていた」。「西欧で出版された少年使節の巡行記録を読むと、西欧の知識人や王侯が日本と日本人についてこの機会に多くのことを知ったことがわかるし、また使節が帰国してから書いた手紙や報告を見ても、彼らが世界をよく知ったということがわかる。もちろんこの使節はイエズス会が計画したものだったし、少年たちは将来神父になるために教育された者たちだったから、そこに宗教的な見かたがあることは事実である。しかし、この使節派遣を計画したひとりのイタリア人の神父(アレッサンドロ・)ヴァリニャーノはルネサンス的な教養をもった高い知性の人で、日本と中国を西欧とは異なっているものの同じように高い文明をもった国として尊敬していた。東西の文明の相互理解をめざしたのがこの使節派遣の大きな目的だったのである」。事実、あの傲慢な信長がヴァリニャーノに対しては、その力量と品格を認め、丁重に対応しています。
一方、『日本史』を著したことで知られる神父、ルイス・フロイスはヴァリニャーノの下役ですが、著者のフロイス評はかなり辛辣です。「実直だが、教養のないフロイス」、「フロイスは、凝り固まったカトリックとして、迷信深く、悪魔や奇蹟のことを信じていて、それらのことを大まじめで書いたり、また自分にとって都合の悪い事実を隠したり書かなかったりするごまかしはするが、はっきり嘘であることがばれるような嘘を捏造するタイプの人間ではないというのが私の見かたである」。
4少年使節がヨーロッパ各国で大歓迎されるという栄光に浴したのに、帰国後、キリシタン迫害という悲哀を味わわなければならなかったのには、当時の世界情勢が影響を及ぼしています。「この近代世界は、15世紀の末からはじまり16世紀をとおして、地理上の発見や大航海時代の開始にともなって展開したスペインとポルトガルの世界帝国支配が大きな枠組みになっているからである。いっぽうでは、ルターらによってはじまった宗教改革で多くの信者を失ったカトリック教会が、この世界帝国の拡大にのってアジア、アメリカに新しい信者を獲得するために世界的な布教活動をおしすすめていた。世界経済と世界布教というふたつの大きな波が16世紀の戦国時代の日本に怒涛のように押し寄せた。それらは大きく見れば世界のなかのすべての国を世界のひとつのシステムのなかに包みこもうとする近代世界への大きな流れだった。戦国時代の大名たちは自分の領土に交易の巨大な利益をもたらす外国船を誘致するために、あるいはまた明日をも知れない戦国の乱世において死後の救済を約束するキリスト教に惹かれて、つぎつぎとキリシタンになり、そのとき領民の多くもキリシタンになった。イエズス会の(フランシスコ・)ザビエルが鹿児島に上陸した1549年から、江戸幕府が第一次鎖国令を出す1633年までの80余年間、日本はまさに『キリスト教の世紀』を迎えていたのである。そのときほど日本が世界的であったことは明治以前にはなかった。そのシンボルとして少年使節の派遣があったのである」。
「少年たちが日本に帰ってきたときに、時代は戦国時代から統一的な国家権力のもとに集中され、他の文明や宗教を排除する鎖国体制に向かっていた。そのために彼らの運命はこの大きな時代の流れのなかで悲劇的なものになった」。マンショ(出発時12歳)は行く先々で追放の目に遭い、1612年に長崎で病死、キリスト教を棄てたミゲル(14歳)は1632年に長崎で死亡(?)、マルティーノ(14歳)は国外追放されたマカオで1629年に死亡、ジュリアン(12歳)は1633年、長崎で穴吊りの処刑で殉教――という苛酷な運命を辿っています。
「少年たちが見たもの、聴いたもの、望んだものを押し殺したのは当時の日本である。世界に扉を閉ざし、世界を見てきた彼らの目を暗黒の目隠しで閉ざしたのは当時の日本である。それでも、彼らは、自分たちの信ずることを貫いて生き、かつ死んだ」という著者の言葉が、心に重く残ります。