滑落した友を抱えながら、山中で死を覚悟した山男の遺書・・・【情熱的読書人間のないしょ話(257)】
枯れ野を眺めていると、「おまえは、一日一日を大切に生きているか?」と質されているような気がします。林は落ち葉で埋め尽くされています。ソメイヨシノの大木は全ての葉を落として屹立しています。キジバトやヒヨドリも冬の雰囲気を漂わせています。因みに、本日の歩数は11,802でした。
閑話休題、山登りはしない私ですが、強い精神力と肉体を兼ね備えた登山家たちは憧憬の対象です。しかし、彼らは常に死の危険と背中合わせの環境に置かれています。『穂高に死す』(安川茂雄著、ヤマケイ文庫)には、11篇の不幸な遭難記録が収められています。
いずれのストーリーも痛ましいのですが、とりわけ心に突き刺さったのは、「一登山家の遺書」です。
昭和23(1948)年12月29日、松濤明と有元克己は槍・穂高縦走を目指し、北鎌ベースキャンプを出発します。「槍ヶ岳北鎌尾根末端から穂高連峰を縦走して焼岳まで――それは長く険しい旅程である。ことに最大の関門は発端の北鎌尾根で、いまだに厳冬期の記録を見ない処女ルートだった。せめてこの氷雪の岩稜を突破して槍の山頂まで到達できれば――松濤明は北鎌尾根に山行全体の成否を案じていた。その鍵も天候しだいで、12月下旬から1月上旬までの気象条件が彼の最大関心事だった」。「厳冬期の北鎌尾根登攀という目標だけでも、かなりの緊張と重圧感をしいられるのだった。槍ヶ岳は、標高3179.5メートルの高峰で、その円錐形の穂先は鋭く天をさして、いかにも壮大なアルペンの風貌を備えた山だ」。「二人はその積雪期初登攀を狙うばかりでなく、さらに槍・穂高の積雪期初縦走を企画しているのだ」。「大学山岳部の極地法登山が苦々しくてならなかった。まるで軍事作戦のごとく大勢の部員を擁して登る集団的登行法が、スポーツ・アルピニズムの正統とは彼(松濤)には信じがたかった。新人は、まるで人夫のごとく酷使されて、ろくに山も見ないで、山麓で荷物かつぎをさせられる現状が我慢できなかったのだ。それだけに二人だけで、北鎌尾根よりの槍・穂高縦走を成功させたかったわけであり、彼自身のアルピニズムの悲願でもあった」。
「1月4日の夜は、3日よりもさらに苛酷な寒気と風雪の牙にさいなまれて暮れていった。もはや飢えと寒気のために刻一刻と体温が失われてゆく恐怖に彼らはおののいていた」。
5日、登攀中の有元が50メートル滑落してしまいます。下山を決意した松濤は有元の腕を肩にかけて新雪の谷を下りていくのですが、遂に友を肩にしての歩行が困難になり、雪洞とも言えない小さな穴を掘り、二人の体を横たえます。
翌年7月の雪解けを待ち、さらに密な捜索が行われた結果、両人の遺骸が発見されます。同時に、松濤の防水袋の中から手記が見つかります。それには、こう書かれていたのです。「1月6日フーセツ 全身硬ッテ力ナシ。何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス ・・・有元ト死ヲ決シタノガ 6・00 今14・00 仲々死ネナイ 漸ク腰迄硬直ガキタ、全シンフルヘ、・・・ソロソロクルシ、ヒグレト共ニ凡テオハラン ・・・サイゴマデ タタカフモイノチ、友ノ辺ニ スツルモイノチ、共ニユク(松ナミ) ・・・」。この時、松濤は28歳でした。山男の友情に目が潤んでしまいました。