榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

一世を風靡した明治時代の雑誌「明星」はフランスにかぶれていた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(306)】

【aamazon 『「フランスかぶれ」の誕生』 カスタマーレビュー 2016年2月22日】 情熱的読書人間のないしょ話(306)

東京・杉並の天沼・阿佐ヶ谷を巡る散歩会に参加しました。紅梅香る世尊院の3m近い多胡灯籠の脇では、白いツバキがひっそりと咲いていました。阿佐ヶ谷神明宮の狛犬は迫力があります。メンバーの女性が引いた御籤が「大大吉」ということで大騒ぎになりました。享保13(1728)年の銘が刻まれている庚申塔に出会うことができました。昭和の雰囲気を濃厚に漂わせている廃屋がありました。広壮な屋敷の塀に描かれた樹木の絵は、見事に本物と一体化しています。帰り道では、雲間から月が顔を覗かせていました。因みに、本日の歩数は17,519でした。

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閑話休題、『フランスかぶれ」の誕生――「明星」の時代1900~1927』(山田登世子著、藤原書店)には、思わず唸ってしまいました。明治時代、一世を風靡した月刊誌「明星」と、その姉妹誌ともいうべき「スバル」はフランスかぶれの精神で貫かれていたという著者の主張が、私の心に新鮮に響いたからです。

「改めて『スバル』と『明星』を読んでみて、最も心にかかったのは『翻訳もの』の多さである。明敏なジャーナリスト(与謝野)鉄幹は西洋文芸こそ時代の先端なのだとみてとったのだ。なかでも、『フランス』ものの翻訳がきららかな地位を占めたのは、やはり上田敏の訳詩の素晴らしさに尽きていると思う。『海潮音』所収の訳詩の多くが『明星』初出である。フランス象徴派の愁いと雅びが品格ある文語に移しおかれて、どれほどの憧憬をよびさましたことだろう。(北原)白秋が、(永井)荷風が、そして、鉄幹その人がひたとフランスに憧れた。『明星』とはまさに『フランスかぶれ』の雑誌であったのだ。くわえて、『明星』の特色である画文交響もフランスかぶれに拍車をかけた。画家たちがいっせいにパリをめざしたからである。時まさに印象派の興隆期。芸術(アール)はフランスからやってきたのだ」。明治最大の詩誌「明星」は、同時に美術誌でもあったのである。

「『明星』明治38(1905)年6月号。20ページにわたるフランス象徴詩の訳詩が、衝撃的なかたちで冒頭を飾った。4号活字という異例の大きさで組まれた詩は、白い余白の贅を一際きわだたせて、読者の目を奪った」。訳出された6篇のうち、最も名高く人口に膾炙したのが、「秋の日の *(=ヰの濁音。ヴィ)オロン(=ヴァイオリン)の ためいきの 身にしみて ひたぶるに、うら悲し。」と始まるポール・ヴェルレーヌの『落葉(らくえふ)』である。「19世紀後半から世紀末にいたるフランス象徴詩の深い理解にたったうえで文語の品格をたたえた上田敏の訳詩は、どれほどの憧憬をよびさましたことだろう」。

「短歌と詩と翻訳と――この3者にかかわって興味深いのが明治34(1901)年2月号である。創刊からおよそ1年、鉄幹の志をよそに、『明星』は師を慕う少女(おとめ)たちが競って恋歌をうたう華やかな相聞の場となっていた。・・・この(与謝野晶子の)奔放な歌の数々はやがて『みだれ髪』にまとめられて世の熱狂を恣にするのだ」。

「『スバル』創刊の明治42(1909)年、(石川)啄木は24歳、白秋も24歳、(木下)杢太郎は23歳、(高村)光太郎は26歳、みなほとんど同年輩の青年である」。「スバル」に集った彼らは「享楽派、耽美派」と呼ばれた。「白秋や杢太郎たち若き芸術家が集って交歓に沸いた『パンの会』は青春の饗宴であった」。「隅田川をパリのセーヌに見たて、洋風のレストランをカフェに見たてた『フランスかぶれ』の会は、酒が入って談論風発、その勢いに、時おり上田敏や永井荷風も姿をみせ、その荷風を慕う若き谷崎潤一郎も姿を見せた」。

私も、「明星」「スバル」を手にして、「パンの会」に参加したかった――という熱い思いに囚われてしまいました。