シェイクスピアの正体、その作品のマジック、そして本質が分かったぞ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(492)】
アール・ヌーヴォーのルートヴィヒ・フォン・ツムブッシュのポスター「ユーゲント(青春)」を見ると、年寄りにも青春が戻ってくるような気がして、嬉しくなります。
閑話休題、『シェイクスピア――人生劇場の達人』(河合祥一郎著、中公新書)から、いろいろな気づきを与えられました。
シェイクスピア別人説について。「田舎町出身の教養もないウィリアム青年がなぜ立派な詩人・劇作家になれたのだろうか。・・・そう疑問に思う人たちは、ストラットフォード・アポン・エイヴォンで行方をくらました田舎者シェイクスピアは、詩人・劇作家のシェイクスピアと同一人物ではないと考える。覆面作家が、田舎者シェイクスピアの名前を借りたにすぎないというわけだ。その正体としてオックスフォード伯爵、フランシス・ベーコン、クリストファー・マーロウなどさまざまな候補が考えられ、果てはそれらの人たちが共同で執筆したとするグループ説まで生まれた」。しかし、著者は、別人説は成り立たないと、動かぬ証拠を挙げています。シェイクスピアの遺書に役者仲間2名に金を贈ると記されており、彼らが「知る劇作家シェイクスピアは、ストラットフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピアと同一人物ということになる」というのです。
シェイクスピアの劇世界にはマジック――タイムスリップ、テレポーテーション、自由自在な場所設定――が仕掛けられており、そして、劇中の台詞は意味を伝えるだけでなく、音の響きを楽しみながら朗唱すべきものだったというのです。「シェイクスピアの魅力とは理屈を超えたおもしろさであり、頭で理解するのではなく、感じるものだと言ってよいだろう。リズムや音の響きを楽しむ世界なのである」。
シェイクスピアの喜劇について、著者はこう分析しています。「人間の肉体は土に還る。だから肉体は腐敗する泥のようなものだ。そのはかなさをしっかりと認識するとき、逆に、生きていることのすばらしさが実感できる。シェイクスピアの喜劇は、そんな暗さに支えられた光の劇なのである」。
シェイクスピア悲劇の本質については、こう喝破しています。「強靭な精神が、あれかこれかの選択をし、自らの判断にそぐわないものを否定するところから悲劇が生まれる。・・・シェイクスピア悲劇の本質はヒューブリス(神に成り代わって運命を定めようという傲慢さ)にあると言えよう」。シェイクスピア悲劇の主人公たちがヒューブリスに支配されていることが次々に明らかにされていきます。
シェイクスピアの哲学について。「シェイクスピアの作品はストア哲学の影響のもとに書かれていたと言うことができそうだ。しかし、どうやらシェイクスピアは、ストア哲学の影響を受けつつも、その影響からのがれようとしていた節もある」。「ストア派の努力は立派だが、(『リア王』の末娘の)コーディーリアの例が示すようにうまくコミュニケーションがとれないと独善に陥る危険がある。さまざまな人々の生きざまを描いてきたシェイクスピアだが、最後に到達したのは『信じる力』の大切さだった。信じる力――それは演劇の基本要素であるのみならず、私たちの人生を支える力だ」。
著者の次の2つの指摘には、目から鱗が落ちました。「シェイクスピア演劇は狂言に近く、西洋近代演劇とは遠い。よく誤解されるが、シェイクスピアは西洋演劇とは言っても、イプセンやチェーホフのような新劇ではないのである。新劇とは西洋近代演劇であり、シェイクスピアは近代演劇ではないのだ」。「善良な王を殺してはならないとためらうマクベスに、『それでも男ですか!』と叱咤するマクベス夫人の激しさがクロースアップされることが多く、ヴェルディのオペラ『マクベス』(1847年)では、マクベス夫人は迫力ある恐ろしい悪女として描かれる。だが、シェイクスピアの原作には、夫を王にしたい一心で励ます夫婦愛があることを見逃してはなるまい」。
本書によって、シィイクスピアの世界は広く深いことを、再認識させられました。