たった一言の威力、文章のふくらみを心ゆくまで味わえる一文集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(600)】
ヘイケボタルの幼虫飼育ヴォランティアを始めて1カ月が経過しましたが、一番大きな個体は体長8mmまで成長しています。散策中に、鮮やかな赤い実を付けたトキワサンザシ、ナンテンを見かけました。マムシグサの赤い実、アケビの薄紫色の実、ヤマグリ(シバグリ)の茶色の種を見つけました。トウガンの実がたくさん並べられています。コウテイダリア(キダチダリア)が薄紫色の花を、ウィンターコスモス(ビデンス)が黄色い花を咲かせています。因みに、本日の歩数は10,580でした。
閑話休題、『日本の一文 30選』(中村明著、岩波新書)は、日本文学好きには堪らない一冊です。日本の作家30人の作品の中から、著者がこれぞ読み手を唸らせる表現だと見定めた一文が抽出されているからです。
「『それじゃ、電話きるわよ。』と、しばらくの猛烈な沈黙のあとで彼女が言った。――庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』」。「この『猛烈な』と『沈黙』との想定外の結びつき、そのいわば<異例結合>に、読者は一瞬はっとする。『沈黙』という現象には動きの要素がないから、本来は、『猛烈な』といった連体修飾語が先行するはずはないからである。・・・動きをともなわないはずの沈黙状態が、向こう側で受話器を握る人間に、何とも言えない威圧感を与える、その雰囲気を、『猛烈な』という異例の一言が、みごとに演出しているのだ」。これこそ、たった一言の威力だというのです。
「鏡の余白は憎いほど秋の水色に澄んでいる。――幸田文『余白』」。「読者は、その空が『水色に澄んでいる』ことを伝える前に、作者が『憎いほど』と書いたことにはっとする。余白の目立つほど、いつのまにか肉体の衰えが進んでいたことに気づいて複雑な思いのよぎる女性が、澄みきった秋空のあまりの美しさに、思わず軽い嫉妬を覚える、その奇妙な反発の気持ちとともに、みごとに季節感を掬いあげた、それこそ、『憎いほど』の一文である」。
「柿の木の下へ行ってみると、そこにお母さんの大きな下駄がぬいである。――坪田譲治『風の中の子供』」。「柿の木の根もとに見つけたお母さんの下駄も、もし母親が木登りをしていると善太が考えたら、ことさら『大きな』などと書く必要はなかった。木登りをしているのがお母さんではなく(弟の)三平だと察し、小学一年生の小さな足でそれを引きずって来たと善太は判断したのだろう。三平の小さな足を頭に浮かべた善太の視点には、その普通サイズの女下駄が不当に大きく感じられる。作者は、その感覚を、現場の空気とともに、そのまま読者に届けたかったにちがいない。この作品で、子供たちの姿が生き生きと感じられるのは、作者が、描く視点を操作して、時に子供の側から眺め、ともに感じ、考え、悩み、照れているからである」。著者の中村明にここまで書かれては、『風の中の子供』を読まないで済ますわけにはいきませんね。
「妻がそういったときの気持が、私のなかに、雨のしずくのように、流れこんでくるようだった。――辻邦生『旅の終り』」。「人や風物との出会いと別れ、それが旅であるとすれば、人生もまた、そういう出会いと別れのくりかえしと言えるだろう。この作品は、ただでも感傷的な気分にひたりやすい旅先の、それも別れ際に、ふと垣間見ることとなった見知らぬ二つの命の終わり。旅と人生という二つの映像の遠近感が、文章の奥行を広げ、余情を誘う」。文章のふくらみを示す例として、私の一番好きな現代作家・辻邦生が取り上げられていることは、嬉しい限りです。
「人間にはどうしてこんなに深いよろこびが与えられているのだろう。――武者小路実篤『友情』」。「(この)一文も、散文的な内容を詩的な方向に導く野放図な書き方だろう。『自然はどうしてこう美しいのだろう』と感動し、『空、海、日光、水、砂、松、美しすぎる』と、その対象を点描し、次に『そしてかもめの飛び方の如何にも楽しそうなことよ』と眼を生きものに転じたあと、『そして』という接続詞で誘導し、(上掲の)この感嘆の一文が登場する。その直後に『まぶしいような』と添え、『彼はそう思った』と倒置的に配したその頂に、ためらうこともなく、『自分のわきに杉子がいる』という感動の焦点を据えるのである。奔放自在、まさに桁外れの文体だ。こんな文章を照れることもなく開けっぴろげに記すことのできた人間、それもプロの作家があったという事実は、とてつもなくうれしく、また、貴重なことであったと思われてならない」。中村の武者小路実篤への熱い思いが伝わってきます。私の若き日々の愛読書『友情』を久しぶりに再読したくなりました。