ある一日に、東京の女子学生と、ブダペストの女子学生に起こったこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(655)】
ヒヨドリには寒空が似合います。因みに、本日の歩数は10,155でした。
閑話休題、『葡萄と郷愁』(宮本輝著、光文社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、久しぶりに宮本輝の世界を堪能することができました。
1985年10月17日という一日に、東京の沢木純子に起こったこと、ハンガリー・ブダペストのホルヴァート・アーギに起こったことが、交互に語られていきます。
生まれた国も育った環境も現在の状況も全く異なり、互いに知り合うことのないこの二人の女子学生には、一つだけ共通点があります。
それぞれが抱いている夢を実現する道を進むべきか否か、人生の重要な分岐点に立っていることです。
純子は、好きな恋人と別れ、若き外交官夫人の座が約束されている結婚に踏み切るか、一方のアーギは、夢の国・アメリカの富豪の未亡人からのアメリカに移住して養女になってほしいという懇望を受け容れるかで、心が激しく揺れています。
二人とも、夢を実現したい、幸せになりたいという気持ちはもちろん強いのですが、それぞれ、祖国、家族、恋人、友人とのさまざまな関係に囲まれているのです。
「純子は、(英国で外交官の研修中の)村井紀之に対して、愛情はおろか、ひとかけらの男性も感じてはいなかったのである」。
「(恋人の池内幸介に向かって)ほとんど叫ぶみたいに、『私、村井さんを好きになったんじゃないわ。打算よ。いろんなこじつけを自分の中でやってるけど、本心は、外交官夫人に憧れてるだけなの』と純子は言った。・・・純子は、着ているものを脱いでいった。全裸になり、腰から下に薄い蒲団をかぶせてうつぶせ、FMのスウィッチを入れた。・・・蒲団をはがれ、純子はあおむけにされた。無言の、そしてお互いのいつもよりぎごちない、けれども不思議なひたむきさに満ちた動きは、快楽よりも愛情の確認に重きがおかれているかでありながら、常よりも烈しい快楽を一瞬のうちに走らせて、たちどころに消えた」。
「今夜だけにかぎらない。結婚を承諾する意味の手紙を出したあとも、幸介と肉体の関係を持ちつづけていたことを知ったら、村井はどうするだろう」。
「純子は、自分に決断を促した最大のものは、時間だと思った。そして、憧れへの実現に対する打算も」。
「(極貧の)生活の中で、アーギが競争率の烈しいブダペスト大学へ入学しようと心を決め、勉強に没頭する活力となったのが、じつは天性の美貌であったことを、彼女自身、最近になって気づいた。アーギの武器は、機知と負けん気と忍耐心だったが、それらを支えつづけてきた根や幹は、己の美しさとその質を熟知したところから生じる誇りだったのである」。
「『アーギは行きたいだろうな。どんなに寂しくても、苦しいことが起こっても、アーギなら負けないだろうからね』。そうつぶやく(恋人の)ジョルトの横顔はひどく頽廃的で、交わりのあとアーギの髪を撫でながら、しばしば彼のひきしまった知的な風貌に生じるものと同じ翳を持っていた」。
「アーギは、(友人の)ラースローの言葉を思い出していた。――俺は祖国を捨てることに感傷的だよ。いろんな難問をかかえてるにしても、俺が生まれて育った国なんだぜ。自由の国アメリカの豪邸に住む寂しいハンガリー人になるより、一生汚ないアパートで暮らしても、友だちのいる祖国のほうがいいよ。でもアーギは勇気と才能があるから、このハンガリーは窮屈で小さすぎるかもしれないね――」。
「一呼吸置いて、ラースローは訊いた。『アメリカに行くのかい?』。『行かないわ。自分の国で頑張るの』」。
時代が違おうと、置かれた環境が違おうと、自分の夢、幸福、愛、友情について深く考えさせられる、読み応えのある作品です。