明治20年代、何とも奇妙な本屋・書楼弔堂を訪れた人々の物語・・・【情熱的読書人間のないしょ話(695)】
散策中に、シジュウカラ、セグロセキレイ、チュウサギ、コサギをカメラに収めることができました。ダイサギとコサギはよく見かけますが、チュウサギを見つけたのは初めてのことです。コサギの特徴である後頭部の2本の冠羽がはっきり見えます。因みに、本日の歩数は10,729でした。
閑話休題、『書楼弔堂 破暁』(京極夏彦著、集英社文庫)は、京極夏彦の妖力全開の一冊です。
明治20年代、帝都の内ではあるが、雑木林と荒れ地ばかりの鄙びた所に、三階建ての何とも変な本屋がありました。「立ち止まって眺めるに、慥かに奇妙な建物である。櫓と云うか何と云うか、最近では見掛けなくなった街燈台に似ている。ただ、燈台よりもっと大きい。・・・しかし到底、本屋には見えない。それ以前に、店舗とは思えない。板戸はきっちりと閉じられており、軒には簾が下がっている。その簾には半紙が一枚貼られている。近寄れば一文字、弔――。と、墨痕鮮やかに記されていた」。
「本は墓のようなものですと(書楼弔堂の)主は云った。『墓――ですか』。『ええ。そうですね。人は死にます。物は壊れます。時は移ろい、凡ては滅ぶ。乾坤悉く移り変わり、万物は普く常ならぬが世の習い。しかしそれは現世でのこと』」。
主は、こういうことも言っています。「『言葉は普く呪文。文字が記された紙は呪符。凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた、呪物でございます』」。
「『書き記してあるいんふぉるめーしょんにだけ価値があると思うなら、本など要りはしないのです。何方か詳しくご存じの方に話を聞けば、それで済んでしまう話でございましょう。墓は石塊、その下にあるのは骨片。そんなものに意味も価値もございますまい。石塊や骨片に何かを見出すのは、墓に参る人なのでございます。本も同じです。本は内容に価値があるのではなく、読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる――そちらの方に価値があるのでございます」。
「『本は、幾らあっても良いもの。読んだ分だけ世間は広くなる。読んだ数だけ世界が生まれましょう。でも、実のところはたった一冊でも良いのでございますよ。ただ一冊、大切な大切な本を見付けられれば、その方は仕合わせでございます』。だから人は本を探すのですと亭主は云った。『本当に大切な本は、現世の一生を生きるのと同じ程の別の生を与えてくれるのでございますよ。ですから、その大切な本に巡り合うまで、人は探し続けるのです』」。
「『その一冊に巡り合えずに、求め求めて溜まった本がこの楼にございます。どの本も掛け替えのない喜びを私に与えてくれた大切な大切な本でございます。一冊として読んで無駄な本などございません』。世に無駄な本などございませんよと主は云った。『本を無駄にする者がいるだけです』」。
本書は、各章で、最後の浮世絵師・月岡芳年、泉鏡花、勝海舟、妖怪研究の井上圓了、ジョン萬次郎こと中濵萬次郎、人斬り以蔵として知られる岡田以蔵、児童文学者・巖谷小波が書楼弔堂を訪れるという凝った作りになっています。京極の面目躍如であります。
妖しさがぷんぷんにおう小説ですが、同時に、読み応えのある書籍論・読書論になっているという、本当に不思議な本なのです。