榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

張作霖の生涯を通して、中国激動の時代、日本破滅への道が見えてくる・・・【情熱的読書人間のないしょ話(721)】

【amazon 『張作霖』 カスタマーレビュー 2017年4月9日】 情熱的読書人間のないしょ話(721)

我が家の庭の片隅で、フクロナデシコが咲き始めています。ちょっといいことがあったので、インド料理店で昼食を摂りました。

閑話休題、張作霖については、日本軍に爆殺された軍閥という認識しかありませんでしたが、『張作霖――爆殺への軌跡一八七五~一九二八』(杉山祐之著、白水社)で張作霖の生涯を辿ることによって、張作霖という人物だけでなく、中国の軍閥割拠という激動の時代、日本の中国侵攻から敗戦という破滅に至る時代をより深く理解することができました。

「1945(昭和20)年の日本敗戦に至る亡国の軌跡をたどると、その17年前、1928年の6月に起きた張作霖爆殺事件が、決定的な分岐点だったのがわかる。明治維新から60年間、全力で走りつづけてきた日本は、ここで制御を失った。以後も立て直しはきかず、内外幾百万人もの命を火焔の車輪に巻き込みながら、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでいく」。

「草莽から身を起こした作霖は、桁違いの器量によって、乱世を駆け上がっていく。匪賊を斃し、モンゴル兵と死闘を演じ、常勝を誇る大軍閥と衝突した。北上する巨大台風のごとき革命軍にも白旗を掲げることはなかった。満洲を勢力圏とする日本に対しては、その力を利用しながら、傀儡にはならず、最後は日本の軍人に殺された」。

「情報収集力と決断力、行動力が生み出した神速の推参だった」。

「孫文は、張作霖の敗北が決まった後、ようやく北伐に乗り出したものの、陳炯明の支援もなく、すぐに挫折した。・・・孫は軍艦・永豊に逃れた。(1922年)6月29日には、一時孫のもとを離れていた革命派の青年将校が、危機を聞いて駆けつけた。名を蒋介石という。ただ、劣勢は覆うべくもなく、孫文は上海に逃れた。張作霖は、それでも行動を起こした孫文に親しみの情を抱いた。のちに、『孫先生は文人であり、兵を率いるのは難しい。国家の大計について考えてくれればいい』と話している」。「作霖は、孫に10万元の生活費を出してやった。支援額は数十万元に上ったとする史書もある」。

「張作霖の、民生や教育への理解は、ほかの軍閥よりはるかに深い。とくに、東北大学創設には熱意を注ぎ、『私は学問をしたことがない。東北の人間が、深く研究する機会を持たないなどということになってはならない。5万の兵力を減らしても、大学はやる』と話していた」。

「(1923年)9月1日、関東大震災が発生、張作霖は、日本に救援物資を送り、在日留学生の安否調査のため、2人を被災地に派遣した」。

「反直隷の同盟者、広州の孫文は、ソ連の政治顧問ボロディンの指導下で、国民党の改造を進めていた。国民党はこの年(1924年)の1月、第1回全国代表大会で、『連ソ、容共、工農扶助』の基本路線を定めた。ソ連、共産党と連携し、労働者と農民を支援するという、モスクワ路線だ。共産党員が国民党に加入し、党運営にかかわることも認められ、毛沢東はこのとき、国民党の中央執行委員候補になった。『国共合作』と呼ばれる両党の協力とはいえ、実質的には、共産党が国民党に寄生し、中国革命を推進するための重要なステップだった。ソ連の支援で軍事力も急速に強化されつつあった。ソ連式教育で士官を育成する黄埔軍官学校が設立され、蒋介石が校長に就任した」。

「(孫と初めて直接対面した)張作霖は、(ベッドに横たわる孫に向かって)思いを口にした。『連ソ容共をやめてください』。ソ連と国境を接し、その力や冷酷さ、詐謀を目にしてきた張作霖は、ソ連、共産党を恐れ、心底嫌悪している」。この翌年の1925年3月12日、孫は肝臓がんのため、58歳で死去します。

「(中国最強の大帥となった)50歳の張作霖は、天下に片手をかけていた」。

「日本では、郭松齢の乱で助けられたにもかかわらず、依然として日本に抵抗する作霖を『忘恩の徒』と見なす声が、ますます強まっていた。ソ連もまた、中国革命の障害となっている張作霖へのいら立ちを強めている」。「ソ連が、張作霖を打倒しようとしているのは明らかだった」。

「田中(義一)は、作霖を通じて満洲における日本の権益の維持、拡大を図り、華北以南の中国全土については、反共に転じた蒋介石による統一を支援する戦略を描いた」。

「張作霖は、『中華民国陸海軍大元帥』となった。満洲の草莽から走り出した博徒の子が、国家元首を称して、中南海に立った」。

「(関東軍高級参謀)河本大作は、その(爆殺の)瞬間について、こう振り返る。『来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車は、クロス点に差しかかった。轟然たる爆音とともに、黒煙は2百メートルも空に舞い上がった。張作霖の骨も、この空に舞い上がったと見えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした』」。作霖は53年の生涯を閉じますが、「張作霖を抹殺すれば満洲問題は解決するという河本らの甘い期待は、しょせん妄想でしかなかった」のです。

「現役軍人が軍組織の支援のもと、外国要人を列車ごと爆殺するという重大犯罪の責任は、実質的に見過ごされた。事実を隠蔽することによる暗い利益が、再発防止よりも優先された。日本という国家、国民を危地に追い込むような独善的謀略を可とする思想、組織的体質が、そのまま温存されたということだ。日本の制御装置は、張作霖爆殺事件によって壊れたと言っていいだろう」。この作霖爆殺は、敗戦まで犯人が公表されず、日本政府内で「満洲某重大事件」と呼ばれました。

本書は、これまで時代の脇役扱いされてきた張作霖に真正面から光を当てた、読み応えのある本格評伝です。