佐藤正午が大先輩作家24人の文章を俎上に載せて一刀両断・・・【情熱的読書人間のないしょ話(822)】
散策中に、白いアサガオと青いアサガオが咲いているのを見かけました。ヤマハギが赤紫色の花を咲かせています。ザクロが実を付けています。なぜか、葉脈の残った透かし葉に惹かれます。因みに、本日の歩数は10,036でした。
閑話休題、佐藤正午は私の好きな作家の一人です。その佐藤が川端康成、森鴎外、夏目漱石、三島由紀夫、井伏鱒二、芥川龍之介、谷崎潤一郎といった錚々たる大家24人を俎上に載せて、その文章にいちゃもんをつけているのですから、『小説の読み書き』(佐藤正午著、岩波新書)が面白くないはずがありません。
佐藤の鋭い舌鋒は、志賀直哉の『暗夜行路』に対しても容赦がありません。「そうやって書かれた言葉と言葉がつながって文節になり、文になり、文章になる。その途中でも、ひとまず文章ができあがったあとでも、今度は推敲という意味の書き直しが待っている。だからふつうは、当然のことながら文章を書くには時間がかかる。ぱっとひらめいて、さらさらっと書いて、おしまい、ということはあり得ない。あり得ないのだが、そのあり得ないことをひょっとしたら志賀直哉はやってのけているのではないかと僕は想像する」。具体的に直哉の文章を掲げて、彼の文章にはこのように推敲した形跡がないと指摘しているのです。
永井荷風の『つゆのあとさき』も佐藤の舌鋒を免れていません。「ところが永井荷風は、そういう読者の気持の余裕というか、ストーリーの流れに乗ってゆっくり小説を読み解いてゆく楽しみみたいなものを、いきなり、女給の君江は、とこの小説を書き出すことで奪っている。僕の目にはそう見える。君江は、とふつうに始まれば何てことはないのに、女給の君江は、と来るから、読者はここで(小説を読み出したとたんに)登場人物の職業と名前と出勤時刻と働いている店の場所と貸間の住所とをいっぺんに頭に入れなければならなくなる。とてもわずらわしく感じる」。佐藤は、荷風は読者をいくらか子供扱いしている、つまり読者を信用していない、もしくは読者を何らかの意味で教育・指導しようとしているというのです。
一方、菊池寛の『形』は絶讃されています。「菊池寛は小説の文章にはこだわらない代わりに、何を小説の内容に盛り込むかにこだわる。徹底してこだわる。・・・原稿用紙にすればたった4,5枚の小説で『生活第一、芸術第二』の信条を実践してみせている。僕はやはりこの小説に欠点を見つけられないし、読んで満足もした、とここでくり返すしかない」。
松本清張の『潜在光景』を論じた中で、清張の本質が衝かれています。「松本清張の小説において、登場人物に必ずあるのに隠されるものは殺意である。でも必ず露見する。作家がそれを暴く。そのために小説が書かれる。こうして何の変哲もない文にすら殺意がプラスされる。誤解のないように言っておくと、何の変哲もない文とは松本清張以外の作家の書く文のことである。私たちの日本語+殺意=松本清張、という公式が成り立つ。成り立つと思う」。
権威に対しても言うべきことは言うという佐藤の姿勢は小気味よい。その婆娑羅精神が彼の小説作りに生かされていることは、その作品が証明しています。