妹が明かした米原万里の流儀・・・【情熱的読書人間のないしょ話(846)】
夕刻、散策がてら、駅前広場の盆踊りを見に行きました。和太鼓の響きと東京音頭の節回しを耳にすると、浮き浮きしてきます。
閑話休題、米原万里は私の好きなエッセイスト・書評家です。『姉・米原万里――思い出は食欲と共に』(井上ユリ著、文藝春秋)によって、米原の素顔に触れることができました。
「大学院を出たものの、定職のないまま、姉は通訳とロシア語講師の仕事で食いつないだ。経堂の日ソ学院(現・東京ロシア語学院)と御茶ノ水の文化学院で授業を受け持った。その文化学院の元教え子たちが言う。『教室で待っていると、万里先生が来るのが遠くからでもわかる。ハイヒールのコツコツ、という音と、アクセサリーのジャランジャラン、という音が響いてくるから』。万里のファッションは独特だった」。
「通訳の仕事は非常な緊張を強いられる。だからストレスも大きい。万里は、通訳で得る高い収入でおもいっきり買い物をしてストレスを解消していた。一気に百万円を超える買い物をしたこともあった。でも、高給ブランドには興味が向かない。そこそこの品質で、好きな色のものを大量に買うのが、万里の流儀だ。アクセサリーも、靴も。その大量の量がすごかった」。
「姉は、自分の気に入ったものがこれだ、と思ったら、他人がどう思おうが、気にしなかった。あまり興味がないものについては、世間的、常識的バランスではなく、自分の合理的理由でものを選ぶ。マイセンの器で紅茶を飲む人なら、お箸は漆塗りじゃないと、とは考えない。わずか100円で、ほしかった黄色のお箸が見つかったのだから嬉しい、というわけだ」。
「大学院を出てからは、踊る機会も、踊る場もなくなった。通訳の仕事も忙しくなっていたし。でも、たしか、1985年に国勢調査があったのだが、輩出した後で、『万里、職業欄に<踊り子>って書いちゃった』と白状した。さまざまな国の踊りに興味を持ち、研究していた姉だが、特に好きだったのは、ロシア舞踊とハンガリーのチャルダーシュだった」。
「ゴルバチョフが登場し、ソ連でペレストロイカが始まってから、それまで暇を持て余していたり、干上がったりしていた人たちの多かったロシア語通訳業界はにわかに活気づいた。このときからソ連崩壊をはさんだ10年の間、万里はめまぐるしい忙しさで、荒稼ぎした。いつ倒れてもおかしくないほどで、たとえば成田に帰国して、家に戻らないまま、数時間後またロシアに飛び立つ、なんてこともあった。そうして得た資金で、鎌倉に大きな家を建てることができた。通称『ペレストロイカ御殿』だ」。
「万里にはお酒を飲む習慣がなかった。コーヒーも飲まなかったし、たばこに興味を示したこともない。・・・そんな万里だが、40歳を過ぎてから抹茶にはまった。毎日お茶を点て、和菓子を楽しんだ」。
「動物たちは万里を大きく変えた。ヒトの機嫌がどうであれ、毎日ごはんはあげなければならないし、犬の放し飼いができる時代ではなくなったので、散歩にも連れて行かなければならない。姉はずいぶん我慢強くなり、生活も規則正しくなった。(以前は気が合わなかった)母の介護も、わたしよりよほど熱心に、優しくやった。ヒトのオスには、ここまで万里を変えることは決してできなかった、と思う」。
「毛深い家族(多くの犬や猫)たちについて書いた著書には、何人かの獣医や動物好きの隣人が登場する。好奇心の強い万里は、何事についても、一家言持つ人の話を聞くのが好きだ。そしてその理屈に説得力を感じると、コロッと信じる」。本書では触れられていないが、この「一家言持つ人」の中に、例の近藤誠が含まれていることは間違いないでしょう。近藤の影響を受けていた米原は、卵巣がんの手術や抗がん剤治療を拒否して、56歳でこの世を去ってしまったのです。
「万里は生涯ヒトのオスを飼わなかったが、わたしは、1987年に井上ひさしと結婚した。姉の大学院時代の友人たちが『唯研』という、哲学研究者向けの雑誌を作っていて、ひさしさんに取材した。その折に、『友だちを連れて、お芝居にいらっしゃい』と勧められ、それを聞いた万里が、井上ファンのわたしも連れて行ってくれたのがきっかけだった。わたしが結婚したとき、姉は友人に『妹さんが日本のシェークスピアと結婚したんじゃ、万里さんの相手は日本にはいませんね』と言われたそうだ」。
「『打ちのめされるようなすごい本』という書評集を読めばわかるように、姉はかなりの読書家だった」。
「人間だれしも、殻の中は個性的で面白い。でも、だれもがその殻を破って個性を表現できるわけではない。万里には殻がなかった。その要因はさまざまだが、姉は、持ち前のエネルギーで、精神を自由に全開させて生きることができた。その結果の困難も喜びも全て引き受けて、周囲に飛び火することもあったけど、それすら時間が経ってみると、なつかしい」。
本書を読み終わり、米原が私の親しい友人であったかのような錯覚に襲われてしまいました。