徴兵忌避者の過去と現在を交錯させて、戦争と戦後の意味を問う小説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(987)】
女房お気に入りの、近くの「梅の花・おおたかの森店」で、二人きりの新年会をしました。小さいながら和風の庭を見ながら昼食を取れるので、落ち着きます。因みに、本日の歩数は10,034でした。
閑話休題、丸谷才一は私の敬愛する作家です。米原万里は私の敬愛する書評家です。その米原が絶賛しているとなれば、『笹まくら』(丸谷才一著、新潮文庫)を読まないで済ますわけにはいきません。
戦争中、徴兵を忌避して日本各地で逃避の旅を続けた浜田庄吉が主人公です。彼は20年後、大学の庶務課の課長補佐として働いていますが、学内政治に翻弄される毎日です。
徴兵忌避時は杉浦健次と名乗っていたのですが、当時の不安に苛まれた日々と、現在の左遷に怯える日常が、交互に、自在に描かれていきます。その境目がはっきりしないので、杉浦とあれば当時の話だな、浜田だから現在のことだなと判断するしかありません。これは、丸谷がわざと仕掛けていることで、現在の状況に徴兵忌避の過去が色濃く影を投げていることを表現するためでしょう。
「ぼく(=浜田)の過去は、かなり広い範囲にひろがったようだ。・・・ぼくは犯罪者だろうかと自分に訊ねた。もちろん八月十五日以前の日本では、徴兵忌避は強盗殺人よりも重い罪である。あれは、この上なく重い罪だった。しかしそれにもかかわらず――獄衣の色の布で骨箱が包まれるのがもし本当だとしても――あれは犯罪ではないし、まして八月十五日以後は絶対に」。
「開け放したままの戸口から庶務課長の声が聞えた。『要領だな、結局』。それに答える西の声があった。『一つ、徴兵忌避は要領をもって本分とすべし』。浜田は暗い表情で数歩あとしざりし、それから玄関へ出た。課長と西とが、どこかから今度の人事異動の噂を聞き込んで不満を述べていることは疑いなかった」。
「真桑瓜を一きれ食べると、阿貴子の母はもうやすむことにすると言って下へ降りて行った。杉浦は瓜を食べるのをやめ、阿貴子の乳房を服の上から触り、乳首が硬くなってくるとスナップをはずした。白い顔がそばに寄って来て、息をはずませながら彼の唇を探す。柔らかくて暖かい女の舌が、男の口のなかで優しいいきものになる。二人は顎を濡らしながら口を離し、そして男の口はすぐ女の乳房へゆく。女の体は倒れ、男の手はもう一つの乳房から腹へ降りてゆく。窓を閉めなくては厭だと女は呟くように言い、そして男はそれに答えない。終った。汗まみれの二人は畳の上に並んで横になり、頭をのけぞらすようにして星空を眺めた。二人は黙っている」。
「浜田は高岡ゆきの話を大変な左遷として意識した」。
「ここでむざむざと堀川理事の言いなりになっては戦争中の自分(=浜田)の行動が正しくないと認めたことになると、そんなことを眠られぬ意識で考えたのである。その考えは彼を興奮させた。三文の値打ちもないと思われる戦争のため兵隊に取られ、自殺させられた(そうにちがいない)友達のことが閃くように頭に浮び、ここで怯んでは柳の奴に申しわけないと思った」。
「『国家というのは原則として、戦争を、真の』と堺はそこに力を入れて。『目的として持っている』。『ほかにいろいろ、目的があるんじゃないかな。国民の幸福とか、文化の発達とか』。『だからそれは仮りの目的、見せかけの目的で、真の目的は・・・』。『そうかい?』と浜田は納得のゆかない声をだした」。
「おれは、今の世界のいちばん大切な掟に・・・盗むなという掟や殺すなという掟よりももっと重い掟に・・・逆らった男なのだから。逆らってしまった男なのだから。国家に対し、社会に対し、体制に対し、いちど反抗した者は最後までその反抗をつづけるしかない。引退することは許されぬ。いつまでも、いつまでも、危険な旅の旅人であるしかない。そう、危険な旅、不安な旅、笹まくら。陽子が口紅の剥げた唇をあわせ、顔をしかめ、ゆっくりと顔をあげてゆく。ゆっくりと目覚めへ向って。そして浜田はそのとき、不思議に悲しい心の高揚を感じていた」。
米原が薦める丸谷作品は、私の期待を裏切りませんでした。