道歌を知っている人、知らぬ人、その差の大きさ限りなし・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1131)】
千葉・印西を巡る散歩会に参加しました。行基縁(ゆかり)の血縁寺を初め、熊野神社、稲荷神社、三宝大荒神社、丸山観音堂、大師堂、厳島神社、大日塚の碑などを見て回りました。大きな民家に驚かされました。草深(そうふけ)の森には、野馬土手の跡が遺されています。水田のイネが青々としています。因みに、本日の歩数は32,276でした。
閑話休題、『道歌入門――悲しいときに口ずさめ 楽しいときに胸に聞け』(岡本彰夫著、幻冬舎)によって、道歌についての理解を深めることができました。
著者は「道徳的和歌を『道歌(みちうた)』と呼んでいる」と記していますが、私はずっと以前から「道歌」は「どうか」と読んできました。
「憎むとも 憎み返すな 憎まれて 憎み憎まれ 果てしなければ――阿茶局、出典不詳」。憎い相手であっても、憎むのは止めよ、相手から憎まれて、さらに憎み返すという連鎖が果てしなく続くだけだから、と諭しているのです。
「やって見せ 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ――山本五十六、出典不詳」。「山本五十六元帥の作と伝わってはいますが、本当かどうかはわかりません。ただ似たような歌は、元帥が生まれる以前からあったのではないかと思います」と、著者が解説しています。
「おちぶれて 袖になみだの かかる時 ひとのこころの 奥ぞしらるる――作者不詳、『歌発百撰集』」。落ちぶれたとき初めて他人の本心が分かる、という歌ですが、かつて社内の派閥抗争に敗れて失脚した時、この歌の正しさを骨の髄まで思い知らされました。
「世の中は 月に叢雲(むらくも) 花に風 思ふに別れ 思はぬに添う――作者不詳、『うすゆき物語』」。月が出れば雲が懸かり、花が咲けば風が吹く。想う人とは別れ、さほど想わぬ人と添う。世の中はままならぬものである、という歌です。本当にそうですね。
「へつらはず おごることなく 争はず 欲をはなれて 義理をあんぜよ――烏丸光広『道徳問答』」。「義理をあんぜよ」とは、義理を大切にせよ、という意味です。できることなら、こういう人生を送りたいものです。
「堪忍の なる堪忍は 誰もする ならぬ堪忍 するが堪忍――作者・出典不詳」。これができていれば、私の人生も大分変わっていたことでしょう。
「気は長く 勤めは強く 色薄く 食細うして 心広かれ――作者不詳、『閑窓瑣談』」。短気を起こさず、心を広く持ち、仕事にはしっかり取り組み、女性関係と食欲はほどほどにせよ、というのです。まさに、私のための道歌のように感じます。
「幾度か 思ひ定めて かはるらむ 頼むまじきは 心なりけり――北条時頼『可笑記』」。さすが、北条時頼、いいことを言っています。果断の人・時頼でさえ、固く決心しても揺らぐことがあったのです。
「としを経て うき世の橋を 見かへれば さてもあやうく わたりつるかな――作者不詳、『鳩翁道話』」。全く同感です。私自身も、運に助けられた人生を送ってきたからです。
「この秋は 雨か嵐か 知らねども けふのつとめに 田草とるなり――二宮尊徳、出典不詳」。将来をあれこれ思い惑うより、目の前のやるべきことをやれ、という、いかにも二宮尊徳らしい歌です。
「世の中の 人は何とも 云へばいへ 我がなすことは 我れのみぞ知る――坂本龍馬、出典不詳」。他人にどう思われるかを気にするな、という、この教えは至言です。
「なにひとつ とどまる物も ない中に ただ苦しみを とめて苦しむ――作者不詳、『松翁道話』」。苦しみや悲しみや恨みをいつまでも引きずるな、という歌です。
「急がずば ぬれざらましを 旅びとの あとより晴るる 野路の村雨――太田道灌『暮景集』」。「急がば回れ」と言っているのです。
「人間は 耳が二つに 口一つ 多くを聞いて 少し言ふため――作者・出典不詳」。多弁を戒め、聞き上手になれ、という戒めです。耳が痛い私です。
「をりをりに 遊ぶいとまは ある人の いとまなしとて 文よまぬかな――本居宣長『鈴屋集』」。時間がないと言い訳し、学ぼうとしない人に対する痛烈な皮肉です。
「知らぬ道 知ったふりして 迷ふより 聞いて行くのが ほんの近道――作者・出典不詳」。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ですね。
「いつまでも あると思ふな 親と金 無いと思ふな 運と災難――作者・出典不詳」。上の句は知っていましたが、下の句は本書で知りました。
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり――上杉鷹山、出典不詳」。挑戦することの大切さが強調されています。