榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

武者小路実篤のユートピア共同体「新しき村」の100年に及ぶ歴史・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1000)】

【amazon 『「新しき村」の百年』 カスタマーレビュー 2018年1月18日】 情熱的読書人間のないしょ話(1000)

ピラカンサ(トキワサンザシ)が赤い実をぎっしりと付けています。あちこちで、ニホンズイセンが咲いています。キズイセンも咲いています。ジンチョウゲの芽が赤紫色に色づいています。因みに、本日の歩数は10,943でした。

閑話休題、若かった頃、私の最も好きな恋愛小説は、武者小路実篤の『友情』と『愛と死』であり、一番好きな作家はもちろん実篤でした。その実篤がユートピア共同体を実現しようと立ち上げたのが「新しき村」です。

「新しき村」の百年――<愚者の園>の真実』(前田速夫著、新潮新書)のおかげで、新しき村の設立から現在に至るまでの100年の歴史を知ることができました。

新しき村とは、どういうものなのでしょうか。「村での生活は、労働が義務づけられ、私物を除いて財産は共有だから、一見共産主義社会と似るが、マルクス・レーニン主義とは無縁で・・・宗教団体でもなければカルトでもなく、『君は君、我は我なり。されど仲よき』で、武者小路実篤の文学や思想に共鳴する点では一致しているものの、農作業ほかの仕事を終えたあとは、各自好きな執筆活動、芸術活動に励みながら、それをめいめいの生き方にしているところがユニークなのである」。

「当年33歳の武者小路実篤が新しき村のために購入した土地は、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城(現・児湯郡木城町)の私有地の一部であった。県のほぼ中央に位置する山村の北端で・・・(当時は)宮崎を経由して終点の妻に出る以外になかった。妻からは村役場のある高城まで3里(約12キロ)、高城から石河内までさらに3つの峠を越えて、蛇行する3里のけわしい山道が続いていた」。どうしても一度は新しき村を一度見ておきたいと、1976年に私が車で新しき村を訪れた時、宮崎からかなりの時間を要したことを、懐かしく思い出しました。

「1918年11月14日に調印、この日が新しき村創立の記念日となった。最初の入植者は、実篤夫妻はじめ大人18名(夫妻を除くと大半が20代)、子供2名、家族数3。すぐに建設が始まり、農業経験者は1人というなかで汗を流したが、致命的なことに、土地はやせ、虫害が多く、開田に不可欠な水の便が悪かった。・・・『お目出たき人』『世間知らず』『その妹』など、初期の創作で大いに注目され、白樺派の領袖とみなされていた実篤が、順風満帆だった文筆をよそに、鳴り物入りで始めた新しき村が、早くもつまずくのを知って、識者も世間も、それ見たことかと嘲笑った。おおかたの人間は、その無謀な試みを内心冷笑していたからである」。

「新しき村での実篤は、ほどなく村内会員の飯河安子と結ばれ、妻の房子は房子で村内の若手男性複数と関係に及ぶ。これは、新しき村における三角関係、四角関係(今でいうダブル不倫)として世に喧伝されたが、実篤も房子もじつに平然としていて、のち、作家の真杉静枝とのあいだも、大っぴらだった」。

「忘れてならないのは、この新しき村には、盲人のほか、ハンセン病患者、被差別部落出身者、朝鮮人も住んでいて、なんら差別がなかったことだ」。

「こうした実篤の反戦・反差別の思想は、おそらくトルストイによって培われたものであろう」。

「開村後20年、紆余曲折いろいろあったなかで、どうやら先の見通しがついてほっとした、そのタイミングを見計らうようにして、候補地は他にいくらもありそうなものなのに、よりによって新しき村の地にダムを築くとは、(宮崎)県当局も悪質である」。思わぬ事態に遭遇し、当地でのこれ以上の発展は見込めなくなったのです。

「東京近郊での新たな土地探しに着手した。1939年、東武東上線沿線に土地が見つかった。埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫の雑木林地1ヘクタールで、9月17日に、鍬入れ式が行われた」。これ以降、新しき村は、西の日向の村と、東の埼玉の村の2カ所体制となったのです。

興味深いことが記されています。埼玉の村の創立から19年経った1958年に「自活を達成したについては、戦後まもなく入村した渡辺貫二(元都庁勤務。黒澤明監督の映画『生きる』で志村喬が演じる主人公、30年間無欠勤の役人渡辺勘治のモデルと言われたことがある)の働きが大きい」。

「武者小路実篤が没したのは、1976年4月9日。享年90。安子夫人が亡くなる10日前、重篤の夫人を見舞って『魂がさけ』、翌日から言葉を失い、食欲を失って、2カ月後のことであった」。実篤没後も、新しき村は続けられていきます。

「新しき村創立以来1世紀に及ぶ歳月は、延べ400余人の村内会員と、1000余人の村外会員の夢と労苦がつむぎ続けた日々であった。超高齢化による人手不足、後継者難、財政難。この三重苦を抱えて、いまや限界集落化した村は、100周年はどうにか持ちこたえたとして、このまま衰亡の時を待つしかないのだろうか」と、村外会員の著者は懸念を漏らしています。