天皇制国家の設計者・山縣有朋の実態・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1203)】
台風接近を警戒したのか、アオイトトンボが我が家にやって来ました。キジバトも落ち着きがありません。
閑話休題、『象徴の設計』(松本清張著、文春文庫)では、松本清張の鋭い目が山縣有朋の実態を炙り出しています。
山縣が軍人勅諭発布に果たした役割について。「山県は(西)周を呼んで自分の腹案を告げ、その表現について熱心に語った。山県は言った。元来、日本の兵士は武士の出身でなければ役に立たないという盲信が維新の頃から行なわれていた。西郷(隆盛)も百姓兵では役に立たぬと言うていた。しかし自分は、曽て馬関戦争のとき、百姓・町人から募った奇兵隊員がどのように勇敢であったかを知っている。むしろあのときは士分のほうが怯懦であった。このことは、去年の西南の役において、剽悍の名を持つ薩摩兵に対して百姓出の兵隊が一歩も譲らなかったことで十分に説明済みである。しかし、軍隊は出来たが、未だ精神面において彼らを倚らしめるものがない。わが国軍隊の唯一の欠点である。・・・この際、兵士の精神を一般人民思想から隔絶したところに置かなければならぬ」。
「軍隊という特殊な社会に堅固な精神的防壁を造り上げたのだ。天皇という絶対性のための権威の陣地構築であった」。
統帥権の発生について。「これで軍隊は天皇に直結し、天皇は幕藩時代の君主の位置にあって、殉死的な『忠義』を強制することができる。かたちの上では、天皇が軍隊を私兵的に直接指揮するのである。統帥権の発生であった。これによって初めて参謀本部長が、陸軍卿の上奏を経ずして、直接天皇に単独発言する意義が充実したのである」。
「天皇を軍人の直接の頭首とした。軍隊を天皇の私兵化の形式にしたのは有朋だが、その意図こそ、有朋自身が陸軍を自己の私兵化していたのであった」。
不敬罪の明文化について。「天皇が神格化されれば、これを冒涜する者に対して刑罰がなければならない。不敬罪はこうして必要となってくる」。
戒厳令の制定について。「(1882年)8月5日には戒厳令を制定した。有朋がこれを作った気持の中には、外との『一朝有事』の際に備えるという表面上の理由以外に、自由民権運動への防遏の意図があった」。
新聞紙条例の改正について。「新聞紙条例の改正は、こうしたなかで品川(弥二郎)の原案、山県の加筆というかたちで進められた。・・・新聞紙面でも伏字が見られるようになり、この頃から削除や削字も目立つようになった。・・・(有朋は)わしの信念じゃ、と言い、こうしておけば、今に新聞は政府に刃向う気力を失ってくるよ、と答えた」。
保安条例の公布について。「有朋は、ここで彼ら(自由民権運動派)を解散させるばかりでなく、東京からその全員を放逐することを考えた。その条文が保安条例である」。
3歳年下の伊藤博文に対する山縣の心情について。「有朋は、近ごろの伊藤の存在に或る眩しさを覚えている。薩摩出身の大久保利通が紀尾井坂で死んでから、政府の実権は伊藤に傾きつつあった。薩州の勢力は、大久保を失うことによって後継者を見出すことができず、僅かに西郷従道を参議として政府に送り込んでいるにすぎなかった。伊藤はすでにこれまでの彼でなく、大久保の後釜として充実しつつあった。軍人の有朋は、いつも自分とならんでいるようで、実は常に一歩先に出ている伊藤に、かすかな劣等感をもっていた。『わしはただの軍人だ』と言う有朋の癖は、『一介の武人』の意識を殊更に持ち、他人にもそう吹聴していたが、そこに政治の権力を持ちつつある伊藤への反感的な呟きが明瞭に存在していた」。
「大久保の死後、日本の政治は殆んど伊藤の一人舞台であった。天皇も、岩倉(具視)も、三条(実美)も、ほとんど伊藤ひとりをたよりにしていた。同じ長州の足軽から出発して、どこで二人の運命が岐れたのであろうか。それまで日本の政治が大久保利通という薩州出身の男ひとりに運営されてきて、その下についていた伊藤が恵まれた能吏だったことに理由が尽きるかもしれない。大久保が仆れてみると、伊藤の前面は彼を遮る一本の樹木もなく、ひろびろとした曠野が展がっていたということになろう。有朋も、大村益次郎の位置をついだ。たとえ西郷隆盛が生きていたとしても、西郷はもはや、老朽化した廃物にすぎなかった。しかし、ふしぎな回り合わせで、この老輩を討つことで彼の陸軍における立場は頂上となった。西郷よりも大久保の死は8カ月遅い。だから、伊藤よりも有朋の栄光はそれだけ早かった。明治10年9月に有朋が西郷を城山に追い詰めた瞬間から、彼は陸軍の頂点にかけ登っていた。しかし、伊藤は彼にすぐ追いついた。爾来、伊藤の活動は絢爛としている。そこは政治と軍隊との相違であった」。
現代の日本を見たら、清張は何と言うだろうか。