榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

吉村昭らしい味わいに満ちたエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1305)】

【amazon 『その人の想い出』 カスタマーレビュー 2018年11月16日】 情熱的読書人間のないしょ話(1305)

女房が、オナガよと囁くと、私の全身にビビッと緊張の電流が流れ、彼女が指し示す方向にカメラを構えます。20羽以上のオナガが群れています。今年は、幸運に恵まれ、大好きなオナガをたくさん見ることができて幸せです。因みに、本日の歩数は12,202でした。

閑話休題、『その人の想い出』(吉村昭著、河出書房新社)は、私の好きな吉村昭のエッセイ集だが、吉村らしい味わいに満ちた文章が並んでいます。

「主婦でない妻」は、吉村の妻・津村節子の家庭での姿を彷彿とさせます。因みに、津村も私の好きな作家です。「結婚してから、二十三年間がたつ。結婚は私の方から申込んだが、妻は小説を書きつづけることに理解をもってくれるなら、という条件をつけた。私は、あっさりとその条件をうけいれた。なにを夢のようなことを言っている、家庭に入ればそんな気持は失せるはずだ、とたかをくくっていた。が、妻は自分の権利を活用し、呆れたことに現在まで小説を書きつづけ、今後もつづけようとしている。そうした妻に戸惑いを感じる時期はかなり以前に過ぎ、すでに私は諦めの境地にある」。その上、吉村が太宰治賞を受賞する1年前に、津村は芥川賞を受賞してしまうのです。

「誰でもそうであるように、私も、家事をうまくとりしきることのできる女を妻にしたいと思っていた。・・・主婦でないわが妻には、母親としての威厳がない。私の思い描いていた家庭像とはかなり異った家庭を、妻は作り上げてくれたようだが、私は、その中に結構面白がって安住している」と結ばれています。よき夫婦かな。

「芸人の素顔」に、いい話が書かれています。「或る夜、小料理屋に入ると、テレビでよくみる落語家がカウンターの隅で一人で酒を飲んでいた。しばらくすると二人連れの中年の客が入ってきて酒を飲みはじめたが、その一人が落語家に気づくと、『なあんだ、××か。くだらないことばかりしゃべるだけで金を儲けやがって』と、呂律の乱れた声で言った。私は、ひやりとした。今にも落語家が立ち上り、客と喧嘩になりはしないか、と思った」。

ところが、「落語家は静かに酒を飲んでいる。客の言葉がきこえぬはずはないが、素知らぬ表情をして杯を口にはこんでいる。そして、お銚子をもう一本追加して飲むと、勘定をして店を出ていった。テレビでは笑いをふきまく落語家とは別人のような落着いた態度で、私は芸人らしさをかれに感じた」。私も、こういう人間でありたいと、強く思いました。

「白衣の人」は、抒情的な好短篇のような味わいです。20歳の吉村が重症肺結核患者として入院し、難度の高い手術を受けた時の思い出です。「(暗澹とした)日々の中で、雨宮さんという看護婦さんが、泥中に清らかに咲く一輪の花のように感じられた。私より四、五歳年長で、やや丸顔の容姿の美しい人であった。言葉づかいがやさしく気品にみち、白衣につつまれた体の動きが優雅であった。将来、このような女性と結婚できたら、さぞ幸せだろう、と思った」。

「それから五十年、雨宮さんの姿が今でも鮮明に眼の前にうかぶ。入院中、雨宮さんが唯一の心の救いでした、とお会いしてお礼を申し上げたい気がしている」。