榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

他の猫たちが恐れをなした大鼠を、動きが鈍そうな古猫が退治できた理由・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1354)】

【amazon 『天狗芸術論・猫の妙術』 カスタマーレビュー 2019年1月3日】 情熱的読書人間のないしょ話(1354)

夜明け前の空に、月を中にして、右上方に金星、左下方に木星が並びました。凧揚げの風習が廃れていないのは嬉しいことです。地元の茂侶神社に詣でました。数十年使い込んだ、愛用の剣玉です。因みに、本日の歩数は10,650でした。

閑話休題、『天狗芸術論・猫の妙術(全訳注)』(佚斎樗山<いっさい・ちょざん>著、石井邦夫訳・注、講談社学術文庫)に収められている「猫の妙術」は、江戸時代中期、滑稽さの中に教訓と風刺を交えて流行した談義本『田舎荘子』の中の一話です。『田舎荘子』は、荘子の思想や説話を応用した談義本であり、「猫の妙術」にも『荘子』の外篇、達生篇第十九の「木鶏」の話が応用されて登場します。「木鶏」が「木猫」に姿を変えてですが。

勝軒という剣術者の家に大鼠が出て、白昼、部屋の中を駆け回っています。勝軒はその部屋を締め切り、自分の飼い猫を向かわせるが、鼠に顔を食いつかれた猫は悲鳴を上げて逃げ出します。次いで、近所の優秀と言われている猫を多数借り集めて部屋に入れてみたところ、猫が近づくと鼠が食いつくので、猫たちは恐れをなして役に立ちません。

そこで、ずば抜けて優秀と評判の猫を借りてきたのだが、利口そうには見えず、それほどきびきびしているわけでもありません。取り敢えず、鼠のいる部屋に入れてみると、鼠はすくんで動けず、猫は何ということもなく、のろのろと鼠に近づき、その鼠を銜えてきたのです。

その夜、件(くだん)の猫どもが集まり、鼠を退治した古猫を上座に据えて教えを乞い、質疑応答が行われます。

その中で、古猫が語ったのが、「木猫」の話なのです。「昔、隣村にある猫が住んでいました。その猫は一日中眠っていて元気がなく、木で作った猫のようでした。人々はその猫が鼠を捕ったところを見たことがありませんでした。しかしながら、その猫がいる所の近辺には鼠は一匹もいませんでした。・・・わたしはその猫のところに行って、そのわけを尋ねました。しかし、その猫は答えませんでした。四度尋ねても、四度とも答えませんでした。いや、答えなかったのではなく、どう答えてよいのかわからなかったのです。このことによって、わたしは、知る者は言わず、言う者は知らないということを初めて知りました。その猫は自分を忘れ、物を忘れて、何のこだわりもなくなっていたのです。武徳の極限に達して、殺すようなことはしないということです。わたしもまた彼には遠く及ばないのです」。惜しくも70連勝を逸した名横綱・双葉山が、教えを受けていた安岡正篤の門下生に「イマダ モッケイタリエズ フタバ」と打電した逸話が思い起こされます。

古猫曰く、「教えと言っても、師はその技を伝え、その道理を諭すだけです。その真意を得るのは自分自身です。これを自得と言います。以心伝心とも言うでしょう。教外別伝とも言うでしょう。それは教えに背くということではありません。師も伝えることができないことを言っているのです。それは禅宗に限りません。聖人の心法から武芸心術の末端に至るまで、自得することは皆、以心伝心なのです。教外別伝なのです」。佚斎樗山は、格闘技の心得に止まらず、教えというものの本質を説いているのです。